「過剰」という概念2005年06月04日 18:36

(承前)馬場が「過剰富裕化」という概念を提唱したのであるが、そしてこれをとらえるメルクマールが、例えば3つあるとしたのであるが、「過剰」というのが結局いかなるものか、何の、何に対する過剰、というのか、と言う点ではいまひとつ明確とはいえないように思われる。その点で、田中史郎*の整理が注目される。田中によれば、「過剰」は、1つには、科学のレベルにおいて量的・質的に何らかの基準を越えているという意味であり、もう1つは、ある限界ないし臨界点を超えると何らかの意味で自己否定にいたる意味だとする。後者の「過剰」理解は、宇野弘蔵の「資本過剰」概念からヒントを得たという。すなわち、資本は、自己増殖する価値の運動体であるが、それが増殖できなくなったとき、いいかえれば利潤を生まなくなったときに、自己否定の状態に至る――賃金の高騰、利子率の騰貴により資本の増殖が実現不可能になる――という恐慌論のロジックから得たということだ。ある点まではむしろ順調な運動が進むが、それを超えるや、むしろ存立の基盤そのものが崩れてしまうというイメージである。田中は、馬場の「過剰富裕化」の「過剰」もこうした意味で解釈しうるとする。いわば社会の自己否定につながるものとしての富裕化ということである。臨界点を超えてすすむ富裕化はむしろ豊かさの累積を意味するのではなく、いわば壮大なゼロへの序曲を告げることなのだということだ。ある部分の肥大化(偏り)が、全体の否定につながる、というロジック。これはさらに追究すべき刺激的な論点だ。 *田中史郎,「過剰富裕の経済学」(『経済学研究』九州大学経済学会、第65巻第3号、1998年)