BSEの次はPSE!?2006年03月01日 23:45

BSE問題はどうなったのだろう。4点セットないし5点セットそのものが、「メール騒動」のせいで後景に退いてしまったような印象だが、BSEが依然アクティブな問題であることに変わりはない。ところで1月中旬くらいから新たにPSE問題が浮上してきた。先日TBSの番組でも大きく取り上げられていたが、今朝のフジテレビ(系列)の番組では、番組を仕切っている小倉智昭が「PSE法は許せなぃ~」と金切り声をあげていた。PSE法は、正式には「電気用品安全法」 といい、家電製品などの安全性を確保する目的で5年前(2001年4月)に施行された法律だ。製造業者と輸入業者は出荷前に製品を検査し、PSEマークの表示義務をもつというもの。これが何故問題かといえば、「PSEマーク」がついていない2001年度以前に製造されたものは原則販売できなくなるという点にある。今朝の朝日新聞は「ビンテージ楽器 買えないの?」という見出しをつけた特集記事を組んでいたが、これは原則販売不可の品目にテレビ、冷蔵庫、洗濯機だけではなくオーディオ機器、電子楽器(中古キーボード、ギターアンプetc.)なども含まれる点に注目したものだ。テクノサウンドの先駆け、YMOメンバーの坂本龍一が「PSE法による規制見直し」の行動に出たことも紹介されている。小倉の“金切り声”のきっかけもこの朝日の記事だったようだ。それにしても「安全第一」という誰もそれには異議を唱えにくいことを前面にだしたこの法律の意味は何なのか。「構造改革」の名の下に進められている規制緩和とは逆の動きに見えるこの動きは何に由来しているのか。しかも朝日の記事の最後に「電気用品安全法が成立した01年、国会質疑は大枠の質問だけ、新聞報道もほとんどなかった」とあるのも大問題だ。確かに、朝日、日経、河北のデータベースにあたってみると、「ほとんどなかった」どころか、2000年10月から2001年6月31日の期間、「電気用品安全法」でも「PSE」でもヒット件数はまったくゼロ。これでは知らなかった、施行までの5年猶予が終了する今になって初めて聞いた、というのも当然だろう。実はわたしたちの生活そのものに強い影響力をもつ法律の立法プロセスがまったくブラックボックスになっているというわけだ。深刻な問題だ。「PSE法」には抜け道がないわけではないらしいが―経済産業省自らそれを指導しているらしいが― ことの本質はそんなところにはないというべきだろう。 (PSE=PとSはProduct Safety、EはElectrical Appliance & Materials の略)

「最高権力者」の「心の問題」2006年03月02日 21:40

今朝の朝日新聞は「オピニオン」面で、“靖国参拝「心の問題」か”を特集している。小泉が自分の靖国神社参拝について、憲法19条で「思想・良心の自由」が保障されているのだから何が問題なのかわからない、と繰り返しているのを取り上げたものだ。これまでいろいろ揺れ動いてきた「政府解釈」や「裁判所」の判断を整理する一方で、憲法学者樋口陽一の談話をのせている。これがよかった。「憲法は公権力の行使者の言動に制限をかけるもの」と基本中の基本のところを押さえた上で「小泉氏の論理の矛盾は、内閣総理大臣という最高権力者にかけられている憲法の制限を取り払う根拠に、もともとは権力者を縛るはずの憲法を持ち出していることにある」とばっさり切っている。実に明快で歯切れがいい。そして「最高権力者が自らの意のままに振る舞うために『心の自由』を持ち出す一方で、良心に照らして個人がしたくないことを無理にさせるという強制が現実に起きている」として“日の丸”、“君が代”強制問題を例に挙げる。結局「近代が前提としてきた、権力を制限して個人の自由を守るという立憲主義の考え方とは全く正反対のことが起きている」と喝破し、同時に「公権力を持つ人々が心のままに行動する『公の私化』」が進んでいるともいう。「公の私化」は、経済領域では公共的なものよりも私益が優先されるという形をとり、政治の領域では例えば総理大臣の言動に心の問題を持ち込むという形で現われているという。憲法を考え抜いてきた研究者らしい、透徹した見方だと思う。それで想い出したことが1つ。数ヶ月前に勤務先の大学で広報誌の編集長をしている同僚が、法学部の若い憲法学者に「いま注目される憲法問題」について執筆を依頼したら、あっさりと断られたと言っていたことがそれだ。引き受けられない理由は「憲法問題で発言すると、それ以降は色眼鏡で見られるから」。何のための憲法研究?、などと問うてはならない。嗤ってはならない。このいわば究極の合理主義、絶対的な客観主義が、いまの研究者たちが競って身につけようとする衣裳(モード)なのだから。

牛乳の戸配復活2006年03月03日 11:30

“まず飲む牛乳” (糸井重里)のコピーが出回ったのはいつ頃だったか。今朝のNHKテレビ(総合)で「牛乳の宅配(戸別配達)復活」が取り上げられていた。私たちの世代にとっては、朝は「牛乳瓶のふれあう音」で目が覚めたというのが記憶の1つだ―もちろん「かつお節削りの音」も懐かしい。ともあれスーパーマーケットが燎原の火のごとく全国を席巻した70年代~80年代に瞬く間に廃れてしまった「牛乳の戸別配達」が再び利用され始めたらしい。そのキーワードは端的に言えば「個別対応」と「高齢化」と見た。東京の例では、客が希望する時間帯に届けるケースが紹介されていた。朝に届ける固定スタイルではなく、客の生活日常のサイクルにあわせてということだ。カウンターがあるちょっとした洋風居酒屋のマスターが、夕方仕込が終わり開店までの時間、届けられたばかりの「牛乳」を飲むシーンが映しだされていた。「飲みたいときに新鮮な牛乳を飲める幸せ」というようなことを言っていた―商品としての「牛乳」に仕上げたのは実は朝だった、ということはないのかしらん?と思ったものの、これは追求しないでおく。ボトルの大きさもいくつか用意されていて、客の好みのものを届ける。要するに牛乳配達が、個別対応の形で行われているということだ。ほかに千葉のケースでは、高齢者の自宅に牛乳を届ける際、配達を担当する、すべて30代~50代の女性が、客とのコミュニケーションも届けることが紹介されていた。客が牛乳の届くのを待ちかねている様子がリアルだった。「届け手」に立ってみれば客はそれぞれ異なり、話す内容も、会話のスタイルも相手に合わせる工夫が必要だろうから、これも「個別対応」の範疇に収まるとも考えられる。最近、ある会報誌(857号)に「ITの発達による『個』の膨張」という小論を書いたが、「個別対応」がビジネスを左右する動きは“残念ながら”時代の主流になっているのである。“残念ながら”というのは、「個別対応」の仕事(労働)の厳しさもさることながら、「個」、「個人」というのは、あくまでも「社会構成上のフィクション」でしかなく、実は「われわれは共生体」(西垣通)なのだという根本のところがわたしたちの意識からデリートされてしまうからだ。

テーマ多すぎ、記事として絞れず2006年03月05日 11:10

昨日は記事に取り上げたい問題が多すぎて1つ,2つに絞れなかった。7年10カ月ぶりに上昇した消費者物価指数、これと連動することになるだろう「量的金融緩和解除」問題。政府・与党は、「景気回復」をことさら強調するのに、「解除」に対しては依然否定的なスタンスを取っている意味は何?。「“大人ニート”増加」も考えたい問題だった。若年ニート、若年フリーターが減少する一方で「歳(とし)のニート、フリーター」が割合を高めているという現象。ある階層世代がそのまま持ち上がっているということなのか。また厚生労働省が発表した「団塊ジュニア世代(71~74年生まれ)」の女性のほぼ半数が未出産という統計も、直感的になにか「他意」があるような気がする。それから「春闘復活」にも注目したい。企業業績の回復を賃上げに結び付けられず、連敗更新中でまるで”楽天イーグルス”の先輩格のようだった労働組合(IMF・JC=金属労協)が26年ぶりに総決起集会を開いて「やる気をみせている」という。駒大苫小牧のセンバツ辞退も、社会のなりたちの観点から考えると案外侮れない問題を提起しているように思う。それからIP電話(インターネットプロトコルをベースとする電話)の利用数=電話番号数が1000万を突破したというのも見逃せない。明らかにクリティカル・マス(臨界質量)を超えたと見られるし、そうだとすれば今後ヨリいっそう急速に普及し、電話というコミュニケーション・メディアが大きく変わるだろう、等等、それぞれ追究したい問題だ。