Wカップ――プチ・ナショナリズムの幕開け2006年06月10日 12:40

Wカップドイツ大会が始まった。プチ・ナショナリズムの幕開けでもある。今朝の新聞を開いてちょっと驚いた。特に朝日の二、三面の『文藝春秋』と『中央公論』の広告。前者は「愛国心大論争」、後者は「こんな『国家』で満足ですか」とある。三面トップには 「通知表に『愛国心』190校」の記事も。W杯にタイミングをあわせたかのように「国家」「愛国心」がいよいよ花盛りを迎えたのか、と見紛いかねない勢いだ。もちろん、国会で本格審議が開始された「教育基本法の改正論議」が背景となっているというのが正解だ。

その点で、一昨日の朝日新聞(朝刊15面 12版 オピニオン)の「国家とは何か?」の企画は一読に値する。憲法学者の樋口陽一と法政思想連鎖史の研究家山室信一の対談。その最大のポイントは、現在、社会がかかえている論点が、民族国家(血縁や地縁を紐帯とするまとまり)と国民国家(すべての国民の共有物である公共社会としての国家。人々が約束を取り結びつつ形成するフィクションとしての国家)のせめぎあいにある、と明確にしていることだ。日本の近代国家を設計(デザイン)した井上毅の「君主は人民の良心に干渉せず」との言説を紹介しているのも注目される。「君主といっても自分の理想を臣民に押しつけたりしてはいけないし、それが立憲制だということを当時の政治家は理解していた」(樋口)と。しかし、もちろん「明治国家では、人心統合の機軸として天皇を目に見える神とした」がゆえに「内村鑑三や創価学会の牧口常三郎などは(が)内心の自由を求めて闘った」のであり、その「歴史のうえに現憲法がある」(山室)。非常に含蓄のある理解ではないだろうか。血縁や地縁というつながりを(いわゆる愛国心という心の問題を)「国家」次元にまで貫こうと試みることの負の問題を浮き彫りにする主張と考えられるからだ。人々の交流は、国境を越え、単なる「旅人」ではない次元でますます拡がっている。様々な人が様々な土地に居住する。とすれば「そこに住む人たちが国境を越えて公共社会(リパブリック)をつくるという新たな国民国家論を期待したい」(山室)というのは、「国家(論)」再考の手がかりとして大いに議論されてよいのではないか。