日経が注目した吉本隆明2006年07月01日 21:55

今朝の日経新聞。文化面に「吉本隆明、大病からの復活」が載った。吉本はいま81歳。糖尿病、前立腺炎などの持病に加え、2年前に虚血性大腸炎を患い、結腸にみつかったがんの摘出手術も受けたという。眼の手術は視力回復にいたらずとも。「老人の運命は酷いもんだ」。高齢化社会という人類の歴史にとって未踏の域を自力の思索力で進む姿が切々と紹介される。現在思索の対象となっているのは、「老人の身体と精神にとどまらない。言語を含めた人間の精神活動の長大な歴史の謎」という。

取材した記者(文化部・宮川匡司)の問い。「八十歳を超えてなぜ、自らを追いつめるように原理的な仕事を続けるのだろうか。」吉本の答えはこうだ。「それは食っていかなければいけませんから。それに、現代は流れる時間の速さが違う。谷崎潤一郎や川端康成や志賀直哉といった古典時代の鬱然たる大家のような生き方は、高度に産業が発達した現代の物書きには、もう無理なのではないか。」「鬱然(うつぜん)たる大家のような生き方」はもう不可能、といいきるところに吉本(1980年代以降の吉本)がのぞく。それは高度消費社会を肯定的に読み解いてきたイメージそのものだ。いわば暗黙知よりも形式知に視線をむける構えと譬えたらいいだろうか・・。

保守派論客の「『激論』番組」評2006年07月02日 17:26

読売の朝刊。日曜の第1面に掲載される「地球を読む」。きょうのキャプションは「空虚な『激論』番組」。「戦後平等主義の悪弊」という視点から保守派の論客・岡崎久彦(外交評論家)が書いている。時事ネタを取り上げるテレビの『激論』番組が、専門家もシロートも区別せずにただひたすら「出演者が視聴者の前でプロレスのような立ち回りのショーを演じてくれるだけを望んで」いわば乱造されていることを斬った論評。

専門家も、どシロートも同一視され、発言時間も同じ長さにコントロールされる『激論』番組。番組制作側に「識者から学ぼうとする姿勢が皆無」というのがその前提になっているが、それは「テレビ局の担当者が学校教育」と、せいぜい「新聞で覚えた限られた知識の中で、番組のシナリオを作ろうとしている」ところに由来している。「担当者は徹夜するような努力はしているようであるが、恐るべきカラ廻り」というほかない。彼らのみずから発する唯一の“ことば”は「視聴率の高いシナリオを作ること」。

こんな状況になった「背後には、おそらく戦後日本の悪平等思想があるのであろう。私は戦後の平等思想の背後には、左翼の影響だけでなく戦時中の軍の思想の残滓があると思っている」と指摘する。「軍の思想の残滓」というのは「組織でやるんだよ。お前だけが特別な人間と思うなよ」という「軍隊経験のある人たちの口癖」から裏づけがとれるとする。

「軍の思想の残滓」というのは確かにリアリティ があるし、左翼の影響についてふれているところは、意外なほど感覚的・情緒的・ジョーシキ的な感じがするものの、「学校教育と、せいぜい新聞で覚えた限られた知識の中で」仕事をこなすやるせなさについては確かに同じ感覚を覚える。最近の学生は、本を買わない。読まない。しかし何かの偶然で、専門書を1冊読み通したとすればそれだけで「もう気分はりっぱな専門家」だ。下手すると教師相手に「タメ語」がでてくる。これが現実・・。こうした現象を、社会を編成する枠組みの問題も含めて剔抉する必要がありそうだ。

いわゆる「国策捜査」とは・・2006年07月03日 22:40

「検察がおかしい 驕りと暴走」。フリージャーナリスト魚住昭の本日発売『アエラ』への寄稿。この間謎だった、ライブドアや村上ファンドを“お縄にするための”東京地検特捜部の異常とも思える意気込みのウラを抉る力作だ。

ライブドアや村上ファンド事件に対する特捜検察 は「ブレーキの壊れた車のよう」というのが魚住の基本的視点。ライブドア関連での特捜の暴走の引き金を直接引いたのが「フジテレビの日枝久会長の怨念」だったという“愛嬌”の指摘も。

ライブドアは「根も葉もない 噂話がいつのまにか現実のように錯覚されてしまった。その意味でライブドア事件は巨大な2ちゃんねる事件だった」という、ライブドア幹部がもらしたという言葉を肯定的に引用しているのが興味を呼ぶ。

山場は、1993年金丸信を巨額脱税容疑で逮捕したことで、検察が「拍手喝采」をうけ、それに気をよくして「国策捜査」に踏み出したというくだり。「検察OBが政府機関のトップに次々起用され」「国家の秩序を支える司法官僚としての自負心が驕りに変わった」。ここにいたって“組織の安泰をはかることが至上命題となる。だから「時代の『象徴的な事件を作り出し、それを断罪する』作業」を繰り返すことになった、と。こうしたなか実は「捜査能力は低下し」、しかも「モラルハザード」が日常化するなかで「これまで手の出なかった企業社会の中枢に検察の“縄張り”を広げていく」ことが始まった。「その絶好のターゲットとして選ばれたのがライブドアであり、村上ファンドであった」。納得できる、か?はともかく、想像力が膨らむストーリイではないだろうか。“この国の権力のかたち”が、とりあえずわたしたちの想像力の及ぶ範囲にあるの・・か・。

「もったいない」―ヒデの場合は?2006年07月04日 23:12

きょうの朝日の社説は、「滋賀知事選『もったいない』が勝った」。「もったいない」を、かつての日本における庶民生活の知恵を表現する「ことば」として注目し、地球環境問題を考えるためにも「大事な気遣い」と注目したのが、 ワンガリ・マータイ(ケニアの環境副大臣・ノーベル平和賞受賞者)。

「もったいない」の語源をみると、意味は原義からかなり派生してきたことがわかる。それだけ実はむずかしい言葉なのだろう。

滋賀知事選では、新幹線の新駅や、ダムの新建造に税金を投入することを「もったいない」と主張する候補が当選した。社説は、この当選が「あっと驚いた人も少なくない」と意外性の視点から取り上げている。

「もったいない」とは何か、と考えるとこれが結構むずかしい。“新幹線の新駅と環境にダメージを与えかねないダム”。これは確かに「ムダ」「不要」といえそうだ。だから「もったいない」のだと。しかし、と思う。「不要」と判断する根拠は常に自明か、というと、必ずしもそうではない。「ムダ」が何を基準に「ムダ」なのか。いま わたしたちのまわりでは、この基準は、コスト原理に一元化されるのが“はやり”となっている。しかし、目の前のコストに替えがたい“果実”ということもあるのではないか。しかも、実はムダが“ゆとり”かもしれない、遊びという”快”かもしれない、とみることもできるし、必要なのではあるまいか。ムダなことをする、だから「もったいない」というのが使えるのは、結構限定的と知るべきだ。

ヒデがサッカーの現役をやめる。まだ30前のアクティブな年齢。「もったいない?」