米国産「牛」丼復活から見えるもの2006年09月02日 22:44

今朝の日経に「吉野家。牛丼18日復活」の記事( Webはこちら)。もちろん米国産「牛」を使った「牛丼」。間に1日限定の復活があったのを除けば、2年7ヶ月ぶりとのこと。100万食分の米国産牛肉でリスタートということのようだが、これは即日売り切れる見通しとある。当面、調達できる量が限られることから休止前の態勢にもどすことは当分難しいらしいが、すさまじいまでの「牛丼」 に対する欲望の強さがあることは見てとれる。先月の末、大阪の焼肉店が 米国産牛肉を前面に押し出して客を呼び込んでいるシーンがテレビに映っ ていたが、若年層の客たちは実に屈託がなく「うまい!」を連発していた。

日経の記事は「サラリーマン、若者が多い」外食産業と「食の安全意識が高い主婦が主要顧客」のスーパー、という対比をしているが、仮に「吉野家の牛丼が好調に推移すれば、米国産牛肉の安全性に対する消費者のイメージが変わる可能性もある」とみる。そもそもBSEに対する知識が欠如しており、したがってたった1回でも汚染部を体内に入れれば何年後かに問題が現れることに思いが及ばないことが示されることになることを示唆する。現に目の前にあること、因果関係だったら、それが“速攻”表示されるのであれば過剰なまでの反応を示すものの、想像力が必要な事態にはほとんど絶望的なほどの鈍い感受性しかみせないフツーの人たち。とりわけ若者ではそうだ。しかも性差もない。米国の食肉業界関係者の高笑いが見えるてくる。日本の閣僚・与党政治家たちの薄ら笑いのリアリティが迫ってくる。

市場メカニズムの“貪欲さ”2006年09月03日 17:11

今朝の朝日(12版 14ページ 文化芸能)に、「“マイナー”競技 中継合戦」の見出し( Webではこちら)。要するに、今まではあまり中継されてこなかったスポーツに民放各局が競って触手を伸ばしはじめた(って言い方あるかな・・?)のを扱った記事だ。これだけだと民放も捨てたもんじゃない、と早合点するかもしれない。が、民放がターゲットとして関心をもつのは、マイナーとはいえあくまでも「世界大会」の競技限定。メダル獲得で一気に大化けする(させる)最近の動向を反映したものだ。卓球、バスケットボール、女子ソフトボール、柔道、レスリング等々、そういえば何となくそんな感じがしてくる。

ただし、こうした動きの背景にあるのは「メジャーなスポーツでは放映権料が高騰している」こと。要するに「人気スポーツが多様化している」のに乗じて、たとえマイナーでも“世界一”になった時のインパクトの大きさはリスクをおかしてもなお魅力をもつということにほかならない。何のことはない、市場メカニズムの貪欲さが生み出した動きということだ。これが、「いまは、マイナー。しかし明日はメジャー」を“世界大会”抜きで実現するのであれば「市場メカニズムの“面白さ”」ということになる。メジャーな競技の放映権料の高騰が、テレビメディアをマイナーな競技へと誘い、これまで競技の片隅でほそぼそと生きながらえてきた種目にスポットライトをあてる、というように、一種の均衡化作用が働くのであれば、これはいささか評価に値するからだ。もちろん、こうした面白さを演出できるほど、いまのテレビメディアが成熟しているとは思えない。ありえない話だ。「国営」放送に期待するか・・!?。

インドへ2006年09月05日 06:59

本日から18日までインドにでかける。初めてのインド。デリー、バンガロール、ムンバイ、プネに展開する日本企業へのヒアリング。およびIT大国として注目されているインドのソフトウェア企業についてその実態を知る、というのが今回の目的。ネット環境が問題なければ、このブログも随時更新するつもりだが、果たして・・。A型肝炎と破傷風の予防接種を受けたが(8月4日と3週間後の25日の2回)、毎年インドに行っている知人によればあまり意味はなさそう。知人いわく「意味はない。なぜならVaccinationsを受けて渡印した人でも罹る人を何人も見たし、1回もうけたことのない自分が何か不都合感じたこともなければ、何かに罹患したということもないから」。ともあれ「中国の次」と喋喋されているインドの現実について過不足なく知ることが目標。

インドにて―その12006年09月08日 13:15

Wipro E-City
インドに来て3日目。ようやくネットが自由になる。

いま何故「インド」に人々の視線が集まるのか。第1の印象は15,6年前に初めて中国を訪れた時のそれとほぼ似ている。日本になぞらえれば19世紀後半から現在(21世紀)までのすべてが、現在に凝縮されている、という感じといえばいいか。ただし、インドの場合は様々な格差がいたるところにあり、それらの因って来るプロセスを想像すると気が遠くなるような世界に吸い込まれる感覚を覚える。インドも90年代初頭まで社会主義型政策を基本としていたが中国政府の統合力がいかに強力なものであったかが想像される。

格差のなかでもっとも分かりやすいのがもちろん経済格差。日本で言えば明治期の貧民と21世紀の金融長者とが同居しているイメージになる。しかもインドの場合21世紀の長者は、日本ではまだ存在していないタイプのそれという趣をもつ。それだけ新しい。いいかえればこれが“IT大国”と注目されるCutting Edgeということになる。昨日インドのシリコンバレーと注目されるバンガロールに本社をおくWiproを訪ねた。ソフトウェアを生み出すことに関しておそらく世界のどの企業もまだ取り入れていないやり方を大々的に現実のものにしている21世紀型企業がそこにあった。しかももちろんWiproだけではなく、インドソフトウェア企業最大手Infosysやタタ財閥の流れを汲む企業も同じようなやり方を導入しているらしい。効果のほどをめぐって激しい競争が展開されはじめている。その21世紀型の「やり方」というのは、端的に言えば、人の能力に依存するソフトウェア開発力を、きわめて高度な技術者を知的・専門的に徹底的に鍛えて育成するなかで実現しつつ、開発に関するKnow-howそのものは企業の資産として保存し、しかも絶えずそれらを更新する体制の構築ということになる。要は、優れた社員が仮に他の企業に移るとか独立して起業して抜けたとしても、まったく問題のない体制ということだ。いわば独立起業した社員の開発力は瞬時に陳腐化される、という構図といえばいいか。なかなかに面白い。