野生動物との共存はもう無理なのか?2006年11月02日 00:58

私の住家は百万都市の旧市街地にある。古くからの住宅地である。 昨朝、私の家から4,5百メートルの距離にあるNTTの社宅の庭に3匹の子熊が現れた。 首都大学東京の現学長の自宅のすぐそば、十数メートルのところだ。 地元の新聞 やテレビでは衝撃的出来事として大きく報道した。

今年は、熊が山里に 出没する例が多発しているばかりでなく、いわゆる繁華街から遠くない市街地にも 現れ始めた。岩手大学の青井俊樹氏(野生動物の生態研究者)によれば、熊が本来生息する山、森林が、人の手が まったく入らず荒れ放題になってしまっているのと、これまでは熊にとっては近寄り難かっ た山里に人の気配がなくなった(子どもの声が消え、犬の鳴き声もしなくなった)のが 大きいという(NHKラジオ第1。11月1日「ニュースアップ」)。要するに、農村における過疎化、高齢化が背景にあるという指摘だ。

山、森林に分け入るプロがいなくなり、山里には賑やかな雰囲気をかもし出す 子どもや犬の鳴き声が響かなくなった。熊にとって、ヒト・人間を知る機会が なくなったというわけだ。人間とは「こわ~ぃ動物なのだ」と認識する機会が奪われたと いうことにほかならない。なぜヒト・人間は、こわ~ぃ存在になれたのか?それはいうまでもなく、農産物 を懸命に育てていたからだ。種まき(種もみまき)から稲刈りまで全知全霊を投入して その過程をひきうける覚悟ができた者がいたからだ。これを妨げたり、成果を奪うものには敢然と立ち向かった。いわゆるテリトリーというカテゴリーが成立するのもこうした背景があったからだろう。現在は、そうした環境が消滅した。すべてはこの問題だ。

11月3日って?2006年11月03日 23:57

きょうは何の日?というのが新聞で、テレビで、ラジオで、そしてWebで結構人気があるという。 きょうは11月3日。1949年、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞が決まった。1957年にはソ連がスプートニクを打ちあげた。メス犬を乗せた衛星。つまり哺乳動物が初めて宇宙空間に飛んだ日。1944年には、敗色 濃い中、千葉県の海岸からアメリカ向けに風船爆弾がとばされたというのもある。

そして、日本 ではきょうは文化の日。1946年のこの日、日本国憲法が公布されたのを記念して1948年に国民の祝日となった。 文化の日が「日本国憲法の公布」にちなんだ日(施行は1947年5月3日)というのは案外知られていないの ではないか。きょうの新聞でも手元にあるものでは唯一「河北新報」だけがこのことを報じているに過ぎない。それも「岐路に立つ平和憲法―『9条』現実との乖離極限」という見出しで。これは・・・・。

高校生、2030年の新聞を読む2006年11月05日 23:48

今朝の日経に「2030年の社会と新聞」高校生コンテスト特集、というのが載っている。いまの高校生が40歳前後になった頃に「社会と新聞」はどうなっているのかを思い描かせた企画。最優秀賞となったのは、携帯しやすいクリアファイルのような機器に、記事を受信して利用する新聞を予想したチーム(兵庫の仁川学院高校)のアイデア。総じて「紙とデジタル技術が融合したハイブリッド型メディア」というのを思い描いた例が多かったようだ。審査に当たった日経の編集委員は「新聞の一覧性や信頼性に加え、ネットや携帯電話などの速報性や双方向性を加えた新しいメディア」というのが共通したイメージだったとまとめている。しかし、本当にこのようにまとめてかまわないアイデアしか集まらなかったというのであればコンテスト自体の意味があまりなかった、ということになるのではないか。誰もが想像する範囲内、想定内の結果という感じだからだ。

しかも記事を読む限り、高校生たちは、読者がネットを介して自分の読みたい記事を取りに行くということを基本形に描いているのも問題だ。つまり、新聞情報をピンポイントでゲットするというスタイルの問題。自分の興味に合わないものは最初から排除するというのは、目を通しているうちに思いがけない情報に出会うという可能性を最初から捨てるということになるからだ。

もっといえば将来の新聞のありようは、それがどんな形になるのか、という媒介(メディア)形式の問題ではなく、何よりもジャーナリズムとしての役割をまっとうしているのか、という問いに耐えられるかどうかにかかっているというべきだ。このくらいマジにならなければ、新聞は語れねぇ・・よね、フセインさん!。

「念力岩をも通す」が修辞を超える!?2006年11月07日 01:21

Web日経で「考えるだけで模型電車動かす・日立が実験に成功」 という記事に出会った。すぐ思ったのが「念力岩をも通す」。精神をこめた力は非現実的威力を発揮するという、観念の世界の超越性を表現するラングそのものをイメージした。

もちろん、今回の 日立の試みはきわめて「唯物的」だ。人間の脳が活発に働いているとき に血流量が増大することが判明したことがベースだというからだ。実験では赤外線で脳内血流量の変化を測定する装置を頭に装着。模型の電車を走らせたいときは頭のなかで簡単な足し 算や引き算を繰り返し、それが脳の血流を増やす、ということを応用するとのこと。止めたいときには“計算”をやめて血流を減らせばいいということらしい。しかし、 「念力」という情報の発信は、必ずしも“有線”を前提とする必要はない。「念力」を受けとめ、それを読み解くソフトがインストールされてさえいれば、いわゆる無線でとばさ れてきた情報を捕まえるのは容易だ。そうであれば、見た目には「念力が岩をも通す」というのは、ごく日常的なレベルの現実となる・・!?。その延長上では、ソフトを組み込まれた 「人間」が、今回の実験でいえば模型電車となるのも時間の問題というべきだということになる・・。