初春を寿ぐ2007年01月01日 17:57

年があらたまった。当ブログも間もなく2年目に入る。大晦日には「イントレランス」のことを書いた。今年2007年も「寛容」の気持ちで向き合うことができない社会事象がたくさん続くことになるだろう。

経済社会(=狭義の経済が何よりも優先して編成される社会)においては新自由主義的思想がさらに猖獗をきわめるのは確実だ。昨年は『労働ダンピング』が注目された。景気の「いざなぎ超え」の中で、働く者の賃金が圧縮され、あらゆる労働の権利がないがしろにされる状況が突出し始めた。非正規化・超長時間労働の強制が当たり前になった。「貧乏」が「ビンボー」となり、○金(まるきん)、○貧(まるび)という形で言葉遊びの世界にかろうじて残っていたかに見えた「貧乏」や「貧困」という言葉が現役復帰を果たし始めた。これも「再チャレンジ」の一環ということなのだろうか。

現政権の政策も、ナショナリズムや国家であることをことさら強調する一方で(教育基本法の改悪、防衛省への“昇格”etc.)、経済については新自由主義を前面に押し出した政策(労働法の改悪、財政・税制の基本方針)になっている。“愛国”の強制と「個人」をプレイヤーと見立てる新自由主義的経済思想がいずれ齟齬をきたすだろうということにはまるで無関心であるかのようなポーズをとりつつそうである。

こうした状況の中で、例えば東京大学出版会の「公共哲学全20巻」が先ごろ完結したのは重要な意味を持つ。

『週刊読書人』(2007年1月12日号)に桂木隆夫が「完結に寄せて」を寄稿している。桂木によれば「このシリーズの知的貢献は・・公共性の概念を考える基本的枠組みとして、従来の『公』と『私』の二分法に代えて、『公』と『公共』と『私』の三分法を打ち出したこと」にあるという。それは「従来の二分法では公共性が国家によって独占されていたのに対して、『公』という官の公共性だけでなく『公共』という民の公共性の領域が明確に位置づけられた」からだ。「公共性はもはや国家の独占物ではなく」なった。また「従来の二分法では『私』の領域が公共性に反するもの、公共性を害するものと考えられていたのに対して、『私』の中に公共性の芽を積極的に認めたこと」も重要だという。「『私』から『公共』が立ち上がるとすれば、『私』の多様性から考えて、『公共』の領域に生成する公共性も多様なものになる。」つまり、オルタナティブとして構想しうる社会のあり方をデザインすることは、とりもなおさず「公共」を立ち上がらせる起動力をどう設定するかに直結しているということを示している。

「市場経済(商品経済)」のもつ社会を編成するダイナミズムも全的に否定するのではない立場にたつとすれば、「私」から立ち上がる「公共」という概念は慎重に吟味することが必要となる。「公共」=利他性=共同体。「私」=民間=市場(商品)経済。「公」=強制=再分配=国家。これら3つの社会編成原理(公共・私・公)をいかに社会のデザインとして組み合わせられるのか、これを追究するのが今年の(も)課題となりそうだ。