ペコちゃんが必要だったワケ2007年01月14日 11:38

素顔を知られないようにするため、ペコちゃん、ポコちゃんは必需品だったのね、ということになるのだろうか。11日にマスコミに大きく報じられた不二家の問題。消費期限の切れた牛乳を使って製造したシュークリーム、賞味期限の切れた材料でつくったアップルパイ、国で定められた基準値の 10倍に達する細菌を検出してなおそのまま出荷したとも。工場では、ネズミを一月に50匹捕獲したこともあった・・。すぅっご~い。よくやるね~。

この問題。いわゆる「危機管理」の問題として見るという例が多いように思う。例えば今朝の日経のコラム「春秋」。「期限切れ原料の使用というあってはならない事実が判明した時点で、これが『負け戦』だと覚悟する。その上で損失を最小に抑えるのがプロ経営者のはず」と。果たして問題はここにあるのだろうか?「あってはならない事実」がなぜあったのかが問題なのではないか。

「機会主義」というのがある。商取引などにおいて、とりかわした契約はふみはずさないものの、ウソや脅しやごまかしの手はふんだんに使って自己利益を追求するというもので、要はあらゆる利得機会をわがものにしようというやり方をさす。不二家の問題も、あるいは今回引き合いに出されている雪印のケースも実は「機会主義」としてつかまえるべき問題なのではないか。さらに言えば、暴力も含めてなんでもありという状況(資本の原始的蓄積過程)の中で形成された「資本主義というシステム」に――形成された後もなお――内在し続けている宿痾ともいうべき問題なのではないか。以前、「みかじめ料」についてふれた時に、「オモテ」と「ウラ」が峻別されつつ、一体になって「世界」(社会、世間と読み替えてもOK)が存立している、ということを書いたが、不二家では「ペコちゃん、ポコちゃん」「おいしさは、しあわせに向かう」が「オモテ」だとすれば「今回あかるみに“出てしまった”ようなこと」が「ウラ」ということになる。コインの表裏と同じと解すべきなのだろう。