久世光彦「むかし電話があったころ」2007年04月04日 21:36

ホントは読まなければならないものがあったのだが、今日の新幹線 では久世光彦『むかし卓袱台があったころ』(ちくま文庫)を読む。 この中に「むかし電話があったころ」というのが入っている。これが とっても説得力に富む話だった。何に対して説得力が富むのかといえば、久世 の感覚とは遠い言い方になるのを承知で、当方の言い方でいえば、い かにコミュニケーション・メディアがわたしたちのくらしに大変な 影響力をもつか、ということについてということになる。久世 が小学生だった頃のこと。つまり戦時中。当時は どの家でもフツーに来客が多かったというのが直接語られるなかみ。 小学生にとっては、客はすなわちお土産と取替え可能だった。客はだれ でもよかった。客が持参するおみやげが何よりの関心事だった。「下ろした ランドセルの上に学帽をきちんと置いて、廊下から真っすぐに座敷に入り、 手をついて挨拶をする」「だいたいこの辺かなと思うころ、母が小さな 目配せを送ってよこし、私はもう一度丁寧にお辞儀をして立つ。」 いわゆるしつけの世界がおのずと成立していたというわけだ。 その背後にあったのが、いまのように電話というコミュニケーション・ メディアがなかった現実。人々はお互いに客として直接行き来しなければ 意を尽くせなかったのである。

客になってこっちから 訪れることも当然ある。「往きの電車の電車の中で、いままで 何度も言い聞かされた行儀心得が繰り返される。・・・衿を直し、洋服の 背中のごみを払い、髪を撫でつける。電車を降りてからもそれが繰り返され、 いよいよ相手の家に着く。・・・二度勧められたら食べてもいいことに なっているお菓子を食べ・・」。ほんと、なつかしの風景そのものだ。実に 品のある日常ではないか。いまとはまったく違った時間のながれがあった ことを教えてくれる。電話というコミュニケーション・メディアとは 何かというのを考えさせてくれる。それが今ではケイタイとメールの 日常となった。失われたものをわかりやすく久世的に言いあらわせないかな と思う。