阿久悠、逝く。2007年08月02日 22:14

作詞家の阿久悠が亡くなった。朝日新聞の扱いが異例なほどでかい。1970年代に一世を風靡した。いま振り返るとその存在感が際立っている。いわゆる歌謡曲が全盛期にあったのと完全に同期している。手がけた曲は5千以上だったとか。音楽評論家の伊藤強は、阿久悠の詞について「歌に言葉があった」というようなことを言っている。テレビでは誰かが「阿久悠は、言葉に生をきざむことを貫いた」と言っていた。曲に言葉が連れ添う、言葉が曲を成立させる。なるほど、そこに1970年代は聳立する。しかし1970年代は、言葉に凭れる音楽から、言葉が後景に退くのをむしろ択び、悦ぶ音楽への交代の時期でもあった。日本でもロックが全開の音を立て始めていたからである。そんな中にあってなお、阿久悠は、歌謡曲をひきうけ、時代を、時代の息づかいを誰よりもはやくつかみ、誰よりもはやくそれを表出した。「北の宿から」は、都はるみの感性をすなおに受けいれ、再生都はるみの世界を演出して見せた。いま21世紀。70年代からもう四半世紀以上経過した。阿久悠が悪友のもじり、というのはホントは違うのではないか・・。

オープンキャンパスって・・2007年08月05日 19:45

昨日は「オープンキャンパス」の日だった。“訪問客”は昨年を結構上回ったらしい。しかし、ここ5年 ほど感じてきた「ただ来るだけの高校生」という傾向はより明確になった。まったく何の問題意識もなく 何の問題関心もなく、ただ言われたから(高校の教員からか保護者からか)来たという訪問客。「何か 質問したいこと、わからないこと、疑問に思ったことありますか?」と問う。これには、8割の高校生が 特になし、と答える。大学とは、大学受験とは、経済学部とは、経済学とは、経済とは、といったことを イメージとして、カテゴリーとして思い描いたことが、実は皆無であることがはっきりわかる。だから こちらとしても対応に大いに苦慮することになる。「質問したいことが特になさそうなので、経済学科とは どんな学科なのかを説明しましょうか?」というと「そうして欲しい」というのだが、これはもう雲をつか むようなことになる。説明の始原をどこまでさかのぼればいいのか、追えばおうほどキリがないからである。 「経済と聞いてイメージするのはどういうことですか?」。「お金とか・・」。「お金とか、何ですか?」 と尋ねても、それ以上の広がりは求めるべくもない。おそらく小学校の、それも低学年のレベル以上のもの ではない。で、「大学を卒業したらこうしたいというのはありますか?」と、訊くと「公務員になりたい」 とか「学校の先生になりたい」というのが少なくない。「このギャップ!」と驚くにはあたらない。これが 現実なのである。男の子の多くはズボンがいまにもずり落ちそうな格好しており、女の子の多くはずり落ちる ものが何もないかのような格好をしている。わずかに脚の上の部分だけが覆われているにすぎない。こうした 彼ら、彼女たちを前にしたら「がく」、とか「ちせい」とか、漢字では書けなくなってしまった・・(;^_^A。

20~30人ほど対応したなかで、感受性のよさそうな男の子が一人いたのがせめてもの救い。

飾りの出所は同一?(仙台七夕)2007年08月08日 08:53

仙台は一昨日からきょうまで「七夕祭り」。3日間で200万人が見物する。他の地方都市と同様、仙台の中心部は地元の商店が中央資本の前に次々と撤退を余儀なくされいまではどこの街なのかが判然としないようになったしまった。仙台に進出した店の多くは、七夕の飾り付けを嫌がるケースが多いと聞く。コストがバカにならないからである。激しい競争のなかでわずか3日間のために手間隙かけることを“無意味”ととらえているのである。しかし、点在、散在するだけの飾り付けであれば、七夕にはならず、みずからのビジネスチャンスも逃してしまう。その結果、飾り付けにかかわる一切を受け持つ「七夕ビジネス」が登場した。いささか極端にいえば、どの店の飾り付けも出所は同じとなったのである。しかも、不思議なことに飾り付けは賞の対象となっている。優秀賞、一等賞等々。この差は何の違い?当然・・の差か・・。

規格化・標準化の問題という意味でも興味を呼ぶ。

明治生まれがケイタイをもった2007年08月12日 21:53

明治生まれにケイタイをもたせた。老人ホームでは各居室に電話をつけるかどうかは入居者(身許引受人)が決める。本来であれば使い慣れた固定電話がいいのだろうと思ったが、試しにとケイタイ電話をあてがってみた。もちろん「しんせつ」「かんたん」「見やすい」「あんしん」をウリにしている、大沢親分、大竹しのぶ、假屋崎省吾などがTVCMに出ている例のやつ。もちろん、大竹しのぶ、假屋崎省吾なんて若すぎて話しにならないし、一番ロートルの大沢親分よりも、約ふたまわりも上の明治生まれには「しんせつ」「かんたん」なんて何処のこと?でしかなかった。まず、開けない。偶然に頼るほかない。偶然ひらいたが、ワンタッチボタンとかなんとかといっても、相手にかけるためには実は最低でもトゥタッチ(two touch)の操作が必要なのである。これでは難しい。難しすぎる。しかも「ワンタッチ」の登録件数はわずかに3件。数字ボタンを使えば13箇所になるが、その場合当然1~3は使えない。使ったら混乱するだけだからである。相手からかかってきたときに受ける〈出る〉操作も問題だ。コール音だけでパニクっているのに、スムーズに出られるわけがない。ここを押して耳をあてるだけといっても、その押すボタンが赤色を発光しつつ点滅するのだから、脅し以外の何ものでもない。

とは、いえ、ここ1週間で、何とか自力でかけられるようになった。「温泉は飽きた。週に2回しか入れない温泉なんて。はやく帰りたい」と訴えてくる。だいぶsenileが進んできている。しかし、訴えるものがあればケイタイもつかえるようになるということなのか・・。

本日、行ってみたら、卓上ホルダーにちょうどさかさまに入れていた。「しんせつ」「かんたん」は見た目がどっちが上か、にわかにはわからないようにできているのである・・。

三洋電機が携帯電話事業の売却を決めたという。シルバーフォンという手もあったのではなかろうか・