2008年の初めに2008年01月03日 23:02

元旦の新聞はずしりと重い。その重量感だけは今年も変わらなかった。しかし中味はかなり軽い。一応経済紙という特徴を持つ日経を除けば、ブロック紙も含めて大きな違いは感じられなかった。じっくりと読んでみようと思わせる企画が本当に少ない。

そんな中で、普段感じていたこと、日頃考えていたのと重なるテーマが少なくとも1つあった。例えば、元旦の読売新聞。「この国をどうする」という企画の初回で、読売の橋本編集委員が茂木健一郎と対談しているが(Webにも掲載されている)、そのなかで茂木が彼の主張のコアである「クオリア」を説明している。「クオリア」を、「言葉でなかなか表せない質感のこと」と端的に言った上で、「脳科学では、物質である脳からクオリアがどう生み出されるかということを解明するのが、一番重要な問題」と主張している。言葉にはできない何か(質感)があり、それが「生命としての人間」にとってきわめて大事な要素をなすと強調している。

ところが、現代においてはこの「言葉にできない何か」が限りなく後景に押しやられていると思わざるを得ないというのが日頃の実感ではないだろうか。茂木もこの点は同じだと見え、今の子どもたちが「メディアで編集された情報」、いいかえればすでに意味が与えられてあることとのみ関係し、「ノイズだとか余計な物」が含まれる「生の経験」を持たなくなったので、まずいことになっている事態に目を止めている。おそらく「生の経験」の欠如が、「言葉にできない何か」とその重要性をつかめない傾向を生み出している、ということなのだろう。

こうした問題は、私の場合には、効率化とそれを支える数量化という近代に固有な認識の枠組みとの関連で考えてきたので―-もちろん「生の経験の欠如」そのものが「効率化」と表裏一体の関係にあるのだろうが――、何か新しい視点を提供されたように感じた。

元旦の産経新聞では、将棋会のホープである佐藤康光棋聖が『ウェブ進化論』でブレークした梅田望夫と対談している。その中で佐藤は、コンピュータVS人間棋士について「コンピュータはしらみつぶしに次の一手を探しますが、人間にはやっぱり、読まない強さというか、大局観というのがあります。その部分で勝る場合が多い。感性というのですかね」と言っている。

今年は、茂木が「クオリア」と呼ぶ「言葉にできない何か」、「ノイズだとか余計な物」があるからこそ生み出される何か、について考えていくことにしたい。ムダの排除、効率の徹底、透明性の追求(すべてを裸に!)といった新自由主義的思考の枠組みを相対化することにつながるだろうからである。

“伊達の初売り”の変容2008年01月06日 20:46

初売りも今日あたりまでだろうか。仙台の初売行事は全国的にも知られている。大盤振る舞いと福袋と。とはいっても実は伊達者のやることだから、一種お祭りとしての色あいが濃厚な伝統行事として続いてきた。売る側は、大盤振る舞いを演出し、買う側は早朝から繰り出してその気合を楽しむ。祭りの最前線に参加できる人数にはさしあたり限りがあるからである。だから、早朝まだ夜が明けぬ時間帯に起きて行動を開始することに抵抗はないものの、行列にアレルギーを感じる身であれば、この伝統行事の最前線に関わるということはほとんどないまま今日に至った。初売りの日に街に出るとしても、お昼過ぎに散歩がてらというのが定着してきたのである。

そうしたスタイルで見た今年の街は、これまでとはいささか違った雰囲気を感じさせた。一言でいえば“福袋の偏在”。もちろん店員がいくら呼び込みの声を張り上げようとも、一向に客が寄り付かない店は従来もあった。私は「ハズレ」を知った上で、こうした店の福袋を行列という苦行なしに買い求めたことがあった。偶には「当たり」のこともないわけではないからである。行列の出来ない店の福袋には、前年の商売の結果が詰まっており、どうしても売れなかった品物がこれで消えてくれるという売り手の切羽詰った思いが込められている。だから、予め中身が何かを問うのはルール違反になるし、固く結ばれた袋の口が販売前にいささかでも隙を見せることは決してなかった。そのかわり、たくさんある福袋のいくつかには「まともな」品も忍ばせておくという罪滅ぼしがなされてきた。伊達者のお祭りたる所以であった。

ところが、今年は、正午をまわっても開店時の形状のままではないかと思われる“福袋の山”を抱えた店がいつにも増して目立ったように感じられた。こうした現象と恐らくは関係するのであろう。日経新聞の東北経済面に「今年は店員に中身を確認する客が目立った」とあった(5日付)。売り手と買い手の暗黙の了解のもと、お祭りが成立するという空気は消え失せようとしている。伊達者が文字通り伊達な存在としてあることが最早許されなくなったのである。今年から初売りとバーゲンセールがかぶるようになったのも根っこは同じと見た。

軽~くなった「入試願書」2008年01月09日 18:41

私立大の入試願書受付が始まった。最近は夏以降頻繁に様々な入試が行われるので,2月のいわゆる一般入試のウェートはかなり小さくなった。AO入試,推薦入試,スポーツ推薦入試,センター入試,社会人特別枠入試,帰国子女入試などなど。しかもそれぞれが1回だけとは限らないから,その分一般入試が軽くなるというわけである。とはいっても,一般入試の志願者の数がやはり最も多い。その願書受付のピークがまもなくやって来るのである。現在は,ほとんどが郵送。必要書類は,願書だけではなく,在籍(or卒業)高校の発行する調査書,健康診断書,入学検定料(払込済証)に加えて,受験票を送付するための封筒などたくさんある。

ところで,この願書受付に,近時異変が生じているらしい。「らしい」というのは,全国的な現象と見えて,直接にも間接にも同じような話を耳にするからである。例えば,返信用の封筒や受験票となるハガキを入れ忘れたという,昔からあったケースだけでなく,調査書を同封しなければならないことを知らなかったとか,願書の記載が未完成とか,入学検定料(払込済証)だけを送付するなどというのまで,それこそ多種多様な事例があるらしい。大学側はこうした事態を見越して「願書郵送の前に」といった形で必要書類を揃えたかどうかを確認するためのフェースシート(レ点をつけてチェックするようなフォーマット)を準備するようになったが,これがいまの受験生にはあまり意味をなさない。

「粗忽」だとか「早とちり」だとか,そういうレベルの話ではなさそうな,こうした現象は,どうやら「認識」に関わる根本的な問題と見られる。「大学全入時代」に突入して,大学入試なんて「そんなの関係ねぇ」,「どうでもいい」ということになったというのはあるだろう。願書を書き,提出することなどは,最早緊張したり,慎重に対応すべきことがらではなくなったのである。仮に提出書類に不備があったとしても,それが直ちに入学試験が受けられないことにつながることはなく,むしろ大学側がその受験生にお願いして不足のものを「あらためて送っていただく」のが普通になったからである。しかし,もちろん,これだけでは願書提出に伴なう不備が頻繁に発生する背景を指摘したことにはならない。

最近の日本の若い世代は「指示待ち人間」といわれる。しかし,いま前景化しはじめたのは,指示してもそれが認識されることなく,まるで無視(シカト)されるかのような事態にほかならないのである。一体,何が始まっているのだろうか。

“模倣”は挫折した2008年01月13日 23:34

先日は、私立大の入試願書受付が始まったことにふれた。もちろん私立大では、入学試験の前には必ず年度末試験が実施される。今年も、その期間が間もなくやってくる。

いまの勤務先に移る前にいた大学では、誰もが知っている、ある現代詩人が非常勤講師だった。「幽かに」という表現を大事にしつつ、これを多用する人である。彼が、ある年の年度末試験に使った「手」がいまでも強烈な印象として記憶に残っている。300人を超える受講生に、個別対応の試験問題を出したのである。学生は誰一人として同じ問題の者がいないという超現実。やや詳しく解説するとこうだ。年間を通して、受講生に何回か詩作の課題を与え、それを各学生別に、いまでいえばデータベースとして保存しておく。年度末の試験の時期がやって来ると、そのデータベースの各学生の作品を参照しながら、それに対応する最もふさわしい詩を、つまりテストの場で読みとかれるべき詩を、その現代詩人が作って問題に課すというものであった。それぞれがすぐれた作品として完成されるという、その表現者としての圧倒的能力に畏怖したのが鮮明である。

そこで今回、一計を案じた。かの現代詩人の「手法」を真似てみようかな、と。今年度は担当科目が土曜日の1時限なので、事実上受講生はかなり少数だからである。採点の時間も少しは確保できる見通しが立ったからでもある。そのために数回、小テストを実施した。個別対応の作題の手がかりを得るためにである。しかし、その結果は、というと、これが完全に空振りに終わったのである。小テストの結果、個別対応が成り立つほどの内実を提出した学生は数えるほどしかいなかった・・。Ach!