この国も“ポスト・デモクラシー”?2008年02月03日 11:09

大学の学長は,学長選考会といった限られたメンバーが推す候補から選出される。知事は,全国に名の知れたタレントに限る。地域の知名度が上がり,特産品・地元産品の売上げが一挙に拡大するという信仰が燎原の火のごとく広まった。社会のデザインを地道に考えるなどという態度はウザい存在にほかならない。営利にとっては邪魔になるだけと見なされるようになった。

日教組の教育研究全体集会が,中止に追い込まれた。集会会場使用について,いったんは契約に応じたホテルが,その後契約を破棄したからである。契約破棄をうけて,日教組が提訴し,東京地裁と高裁が使用を認める決定を出したが,ホテルがこれを無視したというのが経緯のようだ。ホテル側の基本的スタンスは,法律上の問題が発生したら,カネ(賠償金or違約金etc.)で解決すればいい,ということである。その底流には,市場原理が何にも優るとする考えが潜んでいる。会場を提供し,もし混乱が生じたら,他の客の迷惑となり,そのことが企業(ホテル)にとって甚だマイナスとなる。株主はほっとかないだろう。だから,会場提供に関する仮処分(司法の判断)なんて「関係ねえ」。株主の意思は,生身の人間に対応させれば,たった1人だったり,あるいはせいぜい3,4人だったりということもあり得る。

ごく少数の意向が全体を支配する。「市場」こそが,方針・方向を決める。こんな言説が幅をきかせる。コリン・クラウチのいわゆるポスト・デモクラシーが,この国でも現実となった。1960年代~70年代に「戦後民主主義の虚妄」が喋喋された。それはコミュン(共同体)の視座から,当時のデモクラシーのあり方を対象化するという試みであった。それが今では,市場原理主義の視座からデモクラシーが撃たれているのである。デモクラシーは,手間ヒマばっかり,ムダばっかり・・,面白みもネェ,というわけである。

優れた表現者の条件2008年02月07日 23:09

きょうの朝日(朝刊)の2つの記事から。1つは「ひと」。「『憲法9条の思想水脈』で司馬遼太郎賞を受ける京都大教授」の山室信一が紹介されている。彼の「多くはない著書の大半が賞に輝く」が、「多くないのは」本人からすると、「大量の史料に突き動かされ、文章がほとばしるまでは、書けないから」ということになる。もう1つが「文化」面。昨年、詩集『求めない』でベストセラー作家となった加島祥造。「荒地」にも参加していたという彼の場合はこうだ。「詩を一冊の本にするのに5年かかる。詩も絵も高いエナジーが出てくるのを待たなければならない。待つ間も欲張らず、何日も無駄にする。芸術とは自分の無意識が出てくるものだから、思い通りにはならない」。しかし『求めない』は、わずか4か月で形になった。「求めない」と始まる言葉が、次々に言葉をつむぎだしたから。

要するに、ひとをとらえる言葉は誰かに憑依して私たちの知るところとなるということなのではないか。言葉がサクっと乗りうつれるだけの器をもつ、それが優れた表現者の条件ではないかということである。文章を作るのに、彼らはけっして苦労はしない。羨ましい限りである。

コピーで学生が釣れる?2008年02月11日 23:11

キャッチコピーを仕掛ける大学が増えているという。朝日新聞に出ていた。「他大学に比べて優位な点や特徴、目指す方向をひと言で示すことによって受験生や父母らに浸透を図り、大学間競争に勝ち抜こうとするねらいがある」からとある。ホントだろうか?そんなこと本気で考えているのだろうか?たぶん、マジなんだろうな、と思う。大学という共同体を、商品としてのサービス提供の場ととらえた上で、ビジネスにつきもののキャッチーなコピーで売り込めると真面目に考えていると思われるからである。

紹介されているのは「面倒見のよい大学・入って伸びる大学」「個性を持った自立的な人間創造」「触れて温かい都市型大学」「『個』を強くする大学」「好きなことで、一番になろう」「強く、優しく」などなど。こんなので「入りたい~」「ここでお勉強したい~」と思う高校生がいたら、「わが子に学ばせたい」と希望する親がいたら会ってみたいものである。

つい最近、勤務先でも、2009年の新学科スタートに向けた「コピー案」が示された。それも3択で。「明日を読み、なりたい自分への路を切り拓く」「明日を読み、今日を知り、なりたい自分への路を切り拓く」「今日を知り、明日を考え、なりたい自分への路を切り拓く」。どれがいいかというのである。もはや、イエモンの「JAM」の一節を思い出すほかなかった。「ぼくは何を思えばいいんだろう。ぼくは何といえばいいんだろう・・」と。

「感動のライフライン」「価値創造パートナー」「最強のマネジメントを基盤としたコンテンツ制作」。この3つはどこの謳い文句かおわかりだろうか?そう、順番に「ぴあ」「電通」「吉本興業」である。さすが!だって?Ach!

生協が向かう先2008年02月14日 23:01

いまどきの生協というべきなのだろう。直接には殺虫剤が付着した「手作り餃子」。これは価格競争の前に、「安心・安全」へのこだわりが消し飛んだ結果。だから「揺れる生協ブランド」ということになる、というのは本日の『朝日』の夕刊(15面)。同記事によれば、日本生協連のいわゆるPB(Private Brand)は7000品目弱で、食品は5500品目を超える。そして「バブル崩壊後、スーパーの安売り攻勢など業況が厳しくなる中で、低価格路線を強めて」おり、それが中国産の食品、中国産の「餃子」となったのだ読める。もちろん、中国産だから安全に問題がある、とするのは短絡というほかないし、生協と限らず現在の日本の食品が、中国抜きに提供できると考えるのは非現実的である。

いま問題とすべきなのは、生協と他の小売業との差異がほとんどなくなっているということにある。生協(生活協同組合)は、もともと「営利を目的とせず、相互扶助による生活者の経済的、文化的な生活の向上をめざし、自発的に設立された組織」である。それが、営利を目的とする小売店との区別をなくしている。

大学生協もその例外ではない。勤務先の「大学生協」で言えば、書籍部などはもはや目も当てられない状況を呈している。並んでいるのは、雑誌と文庫とハウツー本などまだ売れる商品のみ。専門書はほんのちょっぴりアリバイ的に置いてあるに過ぎない。専門書は書棚に並べてもほとんど動かないから、というのがその理由。しかし、これは専門書という現物が読み手を作り出す関係に思いが至らないという意味で発想が逆というべきである。

ま、教科書も買わない学生たちという現実の前になすすべがないというのが現実ではあろう。何しろ試験当日、教科書が売れたと思ったのもつかの間、試験終了後、一切使用しなかったから買い戻してくれとスゴむのまで現れる始末というのだから・・。