ベストセラー仕掛け人としての「小さな出版社」2008年05月04日 17:47

今朝の日経に「気を吐く小さな出版社」というコラムが載った。社員数人で“当り”を出す企画力に注目したものである。一読して「なるほど,面白い」と思いつつも,「疲れる話,だな」というのが正直な感想。それほどのもの?と思う本を結局はヒット作にまで押し上げる腕力をもつ,今では誰もがその名を知っている出版社がある。名の知れた出版社で経験を積んだ編集者が,独立・起業したという点で言えば,本日のコラムで紹介されている二社もまったくこれと同様である。

二社とは,ミシマ社とアルテスパブリッシング。前者は,内田樹の『劇場の中国論』でデビューし,最近では,個人のポテンシャルをインターネットによって最大限引き出すことをウリにする企業「エニグモ」を取り上げた『謎の会社,世界を変える。』で話題を呼んでいる。後者は,やはり内田樹による『村上春樹にご用心』を第一作目とし,本社を東京稲城市におく。

両社ともネットでの販売という,最近可能となったビジネス手法に後押しされている。もっともなことだと思う。では,なぜ「疲れる話,だな」と感じたかといえば,ジャンルの垣根を越えて「ベストセラーを出すことにこだわりたい」(ミシマ社社長)というのが基本的スタンスのようだからである。これは「それほどのもの?と思う本を結局はヒット作にまで押し上げる腕力」がビジネスモデルになっていることを意味する。要は,“売れる本”,“ベストセラーを刊行する”のが本作りの《根本理念》ということである。だから話を聞いただけで「疲れる」のである。

「将来何になりたい?」と問われ,「有名人!」と答える最近の子どもたちの屈託のなさと見事に通底しているからである。

道路特定財源という難問2008年05月09日 22:36

道路特例法改正案が,きょう参院委で否決された。来週初めの参院本会議でも否決されるわけだが,翌13日には衆議院で再議決されて成立する。いわゆる道路特定財源をめぐってはすでに様々な議論がなされ,マスメディアも好きなようにこれを料理してきた。いってみれば道路特定財源問題は,消費されつくし,既に過去に属す事柄へと転じたといってよい。マスメディアは,この問題を賞味期限も消費期限も切れたゴミとして処理し,今月になって値上げされたガソリン価格に一瞬憤怒を覚えた多くの人たちもごくありふれた日常の風景に溶け込ませたてしまったように見える。

こうしたなか,今朝の河北新報(共同通信配信?)に片山善博(元鳥取県知事)が「道路財源と自治体の役割」なる一文を寄せている。その趣旨は,以下の通り。

いまの日本の多くの過疎地でみられるのは,道路は整備されているものの,その道路を走る路線バス(公共輸送機関)が一掃されてしまったという現実である。いま緊急に必要なのは,例えば足をうばわれた高齢者ということを念頭に,バス路線の維持・復活をはかることであり,バスを使ってたどり着く先の病院の医師確保ということにある。だから一般財源化が進むべき当然の道である。こういえば自治体の首長の多くは,一般財源化しても意味はないと反論するはず。なぜなら必要な道路整備のための経費はそもそも道路特定財源だけではまかなえないのが現実にほかならないからである,と。

こう述べたあと,片山は驚くべきことを指摘する。道路特定財源だけでは,必要な道路整備ができないとして,追加すべき財源は何から捻出しているのかといえば,教育費という例が少なくない,というのである。地方交付税交付金によって手当てされているはずの,地方の小中学校の図書購入費が,手当てされた額を大きく下回っていることから,このことが推察されるという。

かくして,道路特定財源問題は,消費されつくした事柄として済ませてはならないことが財・税制のシロウトにもはっきりと分かってくるということになるのである。どれほどの奥行をもつ問題なのだろうか。

「巨人」としての「船場吉兆」か,「船場吉兆」としての「巨人」か2008年05月15日 16:05

新聞各紙の「おくやみ」欄に,湯木昭二朗の名が載っている。とりたてて解説めいた記事はない。ひっそりと,という形容がちょうどあてはまる感じである。紹介も,「吉兆」創業者湯木貞一の長女の配偶者であり,東京吉兆の元社長を務めた程度にとどまる。生前,「船場吉兆」の一連の不祥事についてはいかなる所懐をおもちだったのか。

きょうは木曜日。日経朝刊に豊田泰光がコラムを担当する日である。「大阪の料亭が焼き魚や刺し身のツマの食べ残しを盛り直して,別のお客に出していたという。」冒頭このように書いて,そのあとプロ野球の話を書く。「・・別のお客に出していたという。ふと頭に浮かんだのは巨人の野球」とつなぐのであるが,豊田の話が面白いのはこういうサプライズにある。

「船場吉兆」の不祥事と読売巨人に共通性を発見するのである。巨人は「よその球団が味を試した外国人やFA選手を取っては盛り直し,フィールドに出している」というわけである。船場吉兆の“ささやき女将”にいわせれば,自分のところのケースは客が「味を試した」ものではない,何を勘違いしている (~_~メ) ・・ブツブツとなるのであろうが,この際,誤差範囲と考えたい。要は,素材が旬に発揮する至高の力にまったく無頓着でいられるその無神経が問題なのだからである。儲け=勝ち,に行って全てを失う,という構図は凡庸そのものなのだが・・。

大地震をめぐるいくつかのこと2008年05月21日 22:00

次に危ないのは日本の・・。2月のインドネシア・スマトラ島沖,今度の中国四川省の次は,という意味である。マグニチュード(M7.5)の割りに,スマトラ島沖の場合,報告された犠牲者はいなかったと記憶するが,今回の四川省地震はケタはずれである。「規模は、阪神淡路の20倍,断層の長さ100Km,幅30Km」という。きょうの時点で,犠牲者4万人以上,行方不明3万数千人,負傷者27万5千人。四川省の人口は9千万人ほどだから,映像でみる状況から思えばよくこの数字にとどまったようにも思う。

ところで,大地震。読みは「おおじしん」である。テレビやラジオのアナウンサーは例外なくこのように発音している。「地震」は,「ジシン」と音読みだが,その前につく「大」は,「ダイ」と音読みにせず,「おお」とする。なぜなのか。しかも「ダイジシン」と発した方が衝撃は強く感じられる。大迫力は「オオハクリョク」とはいわない。とまれ,アナウンサー以外の,特に年配者に「ダイジシン」という者が少なくないというのも興味をそそられる。

3年前だったか,中国に行ったときのこと。天津から北京にクルマで移動した。途中,東に唐山市を眺める格好になった際,同行した中国人の一人が,30年ほど前の「唐山地震」(1976年7月)のことを口にした。犠牲者の数(24万人以上)において20世紀最悪の地震だったと言ったあと,この地震があった年(1976年),周恩来(1月)と毛沢東(9月)の両巨星が相次いで消えた,とぼそっと告げたのを思い出す。古来,かの地では天変地異と天命が革まることをリンクさせて考えてきたからである。「天地革まりて四時成り、湯武命を革めて、天に順ひ人に應ず。革の時、大なる哉。」