2009年に向けて2008年12月31日 13:31

今年も大晦日となった。朝日の朝刊(三面)に,見田宗介が出ている。「今年,もっとも衝撃的だった事件」についてのインタビュー。「もっとも衝撃的事件」というのは,秋葉原で起きた無差別殺傷のこと。わたしの言い方になおすと「過剰なる個の膨張社会」の生み出した事件ということで,見田の指摘には基本的に同感である。が,このインタビュー記事を一瞥して何よりも印象的なのは,「この事件が,日本社会のどんな変化を表しているのだろうか。・・見田東大名誉教授に,読み解いてもらった」というリード文のくだりである。それは,社会的事象(事件)をいわばテクストとして,その意味を解読するということだからである。

なぜ,このことが印象的かといえば,例えば現代の大学生――しかも一応社会科学といわれる分野の勉強をしているはずの大学生――の思考スタイル,ということを取り上げてみると「社会的事象をテクストとしてその意味を考える」ということ自体が通じなくなっているからである。もちろん「言葉の意味」というのは,なんのことか分かる。しかし「社会的事象の意味」というと,ほとんどの学生は怪訝な表情を示すのが現在の特徴となった。試験問題に「○○の歴史的意味について述べよ」などと出した日には,恐慌を来してしまうほどである・・。知性の射程が,点としての〈知識〉どまりになっていて,面や立体にまで届くということがなくなっている。彼らにとって,調べるということは,単語・用語の〈意味〉を調べることにほかならず,関連する用語たちが織りなす一文(ストーリィ)は総体として何を意味しようとしているのか,ということを明らかにすることが調べる作業であるということを知らないのである。そのような訓練をうけないまま“大学生”に至ったといえばよいだろうか。

わかりやすさこそが〈命〉,という近代社会が追い求めてきた合理性・効率優先の結果ともいうべき現象ということである。面を,立体を,わかりやすく表現する困難をひきうける,そんなことは避けたいというのが当たり前になった。かつてであれば,「ストーリィ総体の意味」を読み解くことが,自らはできなくとも,それは必要不可欠なこととして少なくとも認識はしていた。

2009年は,面倒な作業,手間ひまがかかり,直ぐには結果の出てこない作業がまっとうに評価される,そんな方向に踏み出す年になりますように・・。