ひかえ“メディア”,ラジオ2009年03月07日 15:37

今週の初め,朝日新聞の夕刊で
連載「ラジオの時代―第三部そして,これから」
が始まった。

もちろん,
第三部,ということは,
第一部「いまどこかで何かが」(昨年の6月~7月)と
第二部「あのとき あの場で」(昨年12月)があった。

テレビどころか
ネットが前景化しつつある今日,
ラジオという旧メディアの
気になる部分に焦点を
あわせた好企画である。
ラジオの現在を取材し(第一部),
その歴史をふり返った(第二部)上で,
今回(第三部)は,ラジオの将来を
見通そうというのであろう。

テレビの“絶望”,
ネットの“無限”
に対する,ラジオの独特な位相。

例えば,NHKの「ラジオ深夜便」。
高齢者を意識したこのプログラム。
パーソナリティの落ち着き,
ゆったりした口調は,
若もの向けの,
アップテンポなテレビ的
しゃべりとは,
やっぱり全然違う。
2ビートのバラードと
16ビートのR&Bやフュージョンとの大きな差,
と,言えばいいか。

そこで,ラジオについての,これまでの連載記事から
印象に残ったフレーズや言葉を
再現してみる。

生活日常対応
地域密着
等身大
参加誘発
コミュニティの実感
生命力のある言葉
想像力の刺激etc.

けっこう魅力に富んでいるのである。
実感とも重なる。
控え目なメディアなのである。
ラジオは,声が,人が
「こっち」に近づいて来る。
「こっち」が,モニター画面の
「あっち」にとびこまないと
しらけるだけの,
テレビとは,
わけが違う。

ひょっとしたら,
グローバリゼーション時代を
相対化できるメディア
なのかもしれないな,と思う。

雑誌の変身=新書2009年03月12日 21:43

古参の「新書」またはThe新書
朝日朝刊の「文化」面に,
“新書ブーム 市場沸騰”の記事。
大型書店の新書コーナーでは,
店頭に置くレーベル数が50,
毎月入荷する新刊が150点で,
日々の補充は段ボール8箱,とある。
驚くべきボリュームである。
新書洪水,そのものなのである。

『中央公論』の編集長いわく。
背景には出版不況があり,
「値段が安く参入障壁が低い新書はデフレ商品」
相次ぐ「雑誌休刊であぶれた雑誌編集者」の流入も
増幅要因となり
「形は新書だが著者も中身も
タイトルも何でもありの
新書が生まれた。」

なるほど,と思う。
“雑誌沈没”と“新書ブーム”。
これがウラとオモテの関係だというのである。
昨年は『論座』,『月刊現代』,
今年は『広告批評』,『諸君』などなど。
イデオロギー的立ち位置に関係なく,
〈雑誌〉なるメディア
そのものの凋落が顕著に進む。
その凹みを
新書が塞ぐ,
これが現在というわけである。

雑誌,とりわけ月刊誌の不振がすさまじい。
月1回では世の中の流れに,
吸い込まれてしまうだけ。
オピニオン・リーダーとして,
世論を喚起する,なんて
大昔の話である。

『月刊現代』の
編集長の言ったことが,
衝撃的だった。
「秋葉原の殺人事件も,
次の事件があれば忘れ去られる。
事件後すぐ用意した原稿が,
発売段階では話題にもならなかった。」

だから,
雑誌編集者が〈新書〉へと
次々となだれこむ。
まるで,創刊号だけの
雑誌を出すノリで。
かくて,
なんでもありの新書の氾濫にいたった。

わたしたちの世代にとっての〈新書〉は,
「現代人の現代的教養」の書(岩波新書の「発足の言葉」)
であった。
古典の器として〈文庫本〉があり,
書下ろしの媒体として〈新書〉がある,
という関係であった。
その限りでは,〈文庫〉が〈新書〉よりエラカッタ。
とはいえ,
かつての〈新書〉,
ブームに沸くいまの〈新書〉
とは違う,格調ある輝きをもっていた。
一号限りのはかなさからは
遠かった・・。

↑(上の)画像は,手元にあった昔の「新書」。

〈侍〉,サムライか,“はべる”か?2009年03月18日 21:06

きょうは,お昼にWBCの試合があった。
日本チームは,1対4で
韓国チームに負けた。
侍はサムライではあるが,
もとの意味は“はべる”である。
相手に“はべる”日本なのである。
明日は敗者復活戦でキューバとあたる。
日本チームは,まるで
韓国とキューバとだけ試合をするのが
WBCだという格好となっている。
負けても
敗者復活をくぐり抜ける手が
あるからのようだが,
よくわからない ('-'*),
ことにしておく。

それはともかく,
今回も各種メディアは,
プチ・ナショナリズムというか
ローカル・パトリオティズムというか,
やすきにつく人情を煽っている。
実況中継を担当するアナウンサーも,
解説者も,
普段とはまったく違って,
日本に対する思い入れを前面に出し
マイクを握っている。

熱闘甲子園を伝えるような格好で
淡々とやれないものかと思う。
高校野球では,
一つのチームに肩入れして
放送しようものなら,
即ブーイングの渦が沸騰するだろう。
高校野球のときには,
チームのどちらかに感情を移入する視聴者もいれば,
どっちでもいい視聴者もいるのが前提である。
だから放送する者はバランスを考える。

いまの日本には,
韓国とのつながりがある人もいれば,
キューバをひいきにしている人も
結構いるだろう。
いま,ロードショーで
ゲバラを上映している
ことだって
キューバ好きを生み出しているかもしれない。
ようするに
日本はいまや万国の自然人が寄り集まる空間となったのである。

「サルサ・キューバ!!」と,
声をはりあげる間があればともかく,
「サムライ・ジャパン!!」と
ただ連呼するのは
やぼと知るべし,である。

ところで,カストロが学生時代に投手として米大リーグ選抜と対戦して無得点に抑えたことがある,というのは知らなかった・・。
ご存じだっただろうか?

簡易版:卒業論文集2009年03月24日 17:05

「卒論集CD-ROM」
きょうは,
WBCの決勝の日でもあるが,
ローカルには,卒業式の日であった(だから式場ではワンセグがはびこった(>_<) )
それはともかく,今年の卒業生は,
1980年代のバブル絶頂期に生まれ,
いま社会に旅立つ。
戯れに“ビンボー”が飛び交うことはあっても,
「貧乏」や「貧困」が死語となったバブル期。
が,今年の卒業生が,ものごころついた時には,
すでに“失われた十年”がせりだしていた。
そして,「貧困」が冗談ではなくなった状況で職に就く。
卒業生は,この皮肉な
時のめぐりあわせについて
一通り説明することができるはずである。
でも,まあうまく説けなくともいい,としよう。

問題は,入学した時に比べて
どれだけ変わってきょうを迎えたかにあるからである。
目の前のことを感じとることができるようになったか,どうか。
指図されずに動けるだけの自前のセンサーをもてるにいたったか,どうか
「資格とか免許の取得」といった
表面的・形式的なものよりも,
「数値で表現される」ようなものよりも,
とっても大事なものがあることが,
わかったか,どうか。

「どうでしょうかね?」
こんなことを言いながら,
割り当てられた60人ほどの卒業生に,
「卒業証書」を手渡した。
片手で受けとる者。
無言の者。
昔ながらに,時間差をもうけて両手で受けとる者。
謝辞を述べながら受けとる者。
実にさまざま。

ゼミ生には今年も全員の卒論を入れたCD-ROMを作成した。
製本など,大仰なしかけだった昔とはえらい違いである。
卒論そのものが簡便化したのに照応する事態。