雑誌の変身=新書2009年03月12日 21:43

古参の「新書」またはThe新書
朝日朝刊の「文化」面に,
“新書ブーム 市場沸騰”の記事。
大型書店の新書コーナーでは,
店頭に置くレーベル数が50,
毎月入荷する新刊が150点で,
日々の補充は段ボール8箱,とある。
驚くべきボリュームである。
新書洪水,そのものなのである。

『中央公論』の編集長いわく。
背景には出版不況があり,
「値段が安く参入障壁が低い新書はデフレ商品」
相次ぐ「雑誌休刊であぶれた雑誌編集者」の流入も
増幅要因となり
「形は新書だが著者も中身も
タイトルも何でもありの
新書が生まれた。」

なるほど,と思う。
“雑誌沈没”と“新書ブーム”。
これがウラとオモテの関係だというのである。
昨年は『論座』,『月刊現代』,
今年は『広告批評』,『諸君』などなど。
イデオロギー的立ち位置に関係なく,
〈雑誌〉なるメディア
そのものの凋落が顕著に進む。
その凹みを
新書が塞ぐ,
これが現在というわけである。

雑誌,とりわけ月刊誌の不振がすさまじい。
月1回では世の中の流れに,
吸い込まれてしまうだけ。
オピニオン・リーダーとして,
世論を喚起する,なんて
大昔の話である。

『月刊現代』の
編集長の言ったことが,
衝撃的だった。
「秋葉原の殺人事件も,
次の事件があれば忘れ去られる。
事件後すぐ用意した原稿が,
発売段階では話題にもならなかった。」

だから,
雑誌編集者が〈新書〉へと
次々となだれこむ。
まるで,創刊号だけの
雑誌を出すノリで。
かくて,
なんでもありの新書の氾濫にいたった。

わたしたちの世代にとっての〈新書〉は,
「現代人の現代的教養」の書(岩波新書の「発足の言葉」)
であった。
古典の器として〈文庫本〉があり,
書下ろしの媒体として〈新書〉がある,
という関係であった。
その限りでは,〈文庫〉が〈新書〉よりエラカッタ。
とはいえ,
かつての〈新書〉,
ブームに沸くいまの〈新書〉
とは違う,格調ある輝きをもっていた。
一号限りのはかなさからは
遠かった・・。

↑(上の)画像は,手元にあった昔の「新書」。

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