捨てない!派,参上2009年05月05日 19:27

「ヒトが他の生物とちがう最大のポイントは何かというと,それ以前の生物のほとんどがエネルギー・フローの流れの中にとどまり『手から口への生活』をしていたのに対して,はじめて本格的にストックを作り出して利用する,ストック依存型生物となったことである。」

これは立花隆の
『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫)の1節である(452頁)。

黄金週間もふくめて,この半月,
時間をみつけては
研究室の片付けに,これつとめた。
都合30時間以上。
本当は,やるべきことは山ほどある。
が,部屋の収容キャパシティを
はるかに超えて本が,
モノが,
あふれるに到った。
次の仕事にとりかかる
机上の空間を
確保するのさえ困難になった。

厖大な書類の山を
いちいち点検しつつ,
9割方処分した。
雑誌も2年以上前のものは,棄てた。
本は全部残した。
片付けにつきものの
“片付けながら本を読む”は,
今回も楽しんだ v(^o^)。

書棚の奥に隠れていた
立花隆の本も,その一冊。
上に引用した一文は,
ダメな本の典型として,
辰巳渚『「捨てる!」技術』(宝島社新書)
を取り上げ,
これをテッテ的にやっつけたところに出てくる。
10年ほど前に話題になった本である。
立花のむきになっての反論が面白い。
脳科学(脳型コンピュータ)や
物理学(マルコフ過程・非マルコフ過程)の知見まで動員しつつ,
人類史の流れにおいて
「捨てない」ことが如何に大事かを
滔々と説いている。

「よきものは捨てない派が作るストックから生まれてきたのである。常に無用とも思えるほど過剰なストックの中から,未来(次の時代のにない手)が生まれてきた」。

だから「仕事の資料」を
捨てるなどというのはとんでもない
ことなのである。
まともな職業人であれば,
思いがけないときに,
過去の資料が必要になることが
よくあるのは,誰でも知っている・・。

まったくその通りだ。
今回の片付けで,
さしあたり次の仕事にとりかかれる
スペースは確保できたから,
三分の一は手つかずではあるものの,
ひとまず終了。
「捨てない主義」を貫徹しても,
おそらく1,2年は
収容のキャパシティが保てる見通しがたった (*^.^*) 。

『文學界』新人賞の「意味」2009年05月13日 10:46

非漢字文化圏の出身者が
初めて「文学界新人賞」を受賞した。
ほぼ一ヶ月前,新聞で知った。
今朝の河北新報(「時の人」)で
作家を紹介している。
これだけ読めば,
「そうですか」で終わったと思う。

ところが
一昨日の朝日新聞の「ひと」でも取り上げていた。
作品を掲載した『文學界』(6月号)
発売にあわせて各新聞社が
同じような企画を立てた
ということなのだろう。

ともあれ,
来日5,6年で自然に日本語で
小説まで書けるようになったという作者は,
イラン女性である。
朝日の「ひと」には,
日本語習熟のコツが
「テレビを見ること。特にバラエティ番組」とあったので,
ちょっと興味を惹かれた。
バラエティ番組が,
『文學界』ご推薦の小説表現に
役立ったというのだから,
これは放っておけない。
「あのバラエティ番組が?!」というわけである。

そこで久しぶりに
『文學界』を購入し,読んでみた。
なるほど,「ハサンに拍手!」とか
「避けないと,本気で轢かれそうになる」,
「何百人もの人が一斉に叫んだ。声が骨の芯まで届く気がした。強くて,ぶっとい」
など,
なんとなくバラエティの雰囲気を漂わせている箇所がないわけではない。
しかし,作文の基調は,
けっこうオーソドックスな日本語である。
ところどころ日本語としてハテナと思うところもあるが
「青いジープが駐車されている」,
「監視役の先生がやってきては,罰せられるのが一目瞭然だが」,
「(ラマダン期間中)・・,一日中ずっと我慢した香ばしい料理の匂いも香りも肺いっぱいに吸い込みながら,断食を終わらす瞬間を待つ。」etc..,
それはトリヴィアルなことに過ぎない。
独特のリズムをもつ文の流れが,こうした難を一蹴している。

内容的には,「戦争」(イラン・イラク戦争)と「高校生」を主要な道具立てとするいわゆる純愛小説である。
かぎりなく定型的な世界ともいえる。
と,いうことは,
かつての日本にあって
いまは“失われてしまった情景”を
そこに見いだして
多くの人が反応した韓国ドラマ(冬ソナetc.)と
同様の位相に属す“小説”とみていいだろう。
“韓流”に“ムスリム流”が新たに加わったというわけである。

楊逸の登場など,
日本語の非ネイティブが
じかに日本語で小説を書いてしまう
トレンドの一端にも
止目する必要はもちろんある・・。

新型インフルエンザという災禍とグローバル企業2009年05月20日 14:21

昨日,NHKラジオ(「ビジネス展望」)で,
経済産業研究所の山下一仁が,新型インフルエンザについて,
その防止策を「農政と経済」の視点から話していた。
要は,民事的損害賠償が,
最近では,企業に過失がなくとも
損害賠償責任が発生していること(無過失責任)から,
これにアナロジーしつつ,
新型インフルエンザのような病気を発生させた政府に
責任の一端を負わせるようにすれば,
現実的な抑止策・予防策につながるはず,
という主張であった。

すでに国連の国際法委員会では,
原子力開発,宇宙開発など
国際法的には合法であっても,
人間の健康,生命,環境に危険性が及び,
実際に損害をもたらした場合には,
事業者と国家に
事後的な無過失責任を負わせるという
原則案が,採択されているので(2006年),
これをいわばグレードアップすれば良いというのである。

これだけ聴けば,
例えば過失がないものの結果的に不良品を販売したというようなケースと
ウィルスが原因となる新型インフルエンザ(のようなもの)とを
同次元に並べる“乱暴”に,
はてな?と思うだろう。
しかし,山下は,
新型インフルエンザのような現象は,
科学技術の発達や
グローバル化・貿易の広がりと
密接に関連していると指摘しながらも,
それ以上のことを言わないので,
事の本質が見えないだけである。

いま発売中の『週刊 金曜日』では
「特集 豚インフルエンザ・パニック」を組んでいる。
その中に,松平尚也「多国籍企業が牛耳るメキシコ養豚の実態」がある。
「メキシコから輸出される豚肉の実に9割が『日本向け』」
というのにいささかのショックを覚えるが,
豚肉の“製造”構造の方が
ヨリ衝撃的な話である。
要するに「効率化を追求する大規模な工業的畜産」が,
その実態だというからである。
欧米でスタートした
「工業的畜産は畜産貿易の拡大,
グローバル化の流れに乗って全世界に広がる勢い」にある。
限られた空間に,可能な限り多数の豚(家畜)を入れる“飼育工場”
というわけである。
その際,
多国籍企業(スミスフィールド・フーズの実名あり)は,
養豚業で一番コストがかかる糞尿処理費を浮かすために
「豚の糞尿を垂れ流し,悪臭を放つ巨大な肥溜池を作った」という。
きわめて高い“家畜密度”。
そこでは,一匹(頭)の家畜が病気に感染すると,
同じ“工場”にいるすべての家畜に
一瞬のうちにウィルスが
広がるリスクが常に存在している。
当然,ウィルス交雑の温床にもなる。

ということは,
新型ウィルスは自然現象というよりも,
人為的・人工的な現象にほかならないということである。
すぐれて経済社会の問題なのである。
山下の提案は,
経済的視点(コスト意識)に訴えるという点で,
実は相対化されるべき側面を含むとはいえ,
現代経済社会が直面している難問の一つが,
多国籍企業(グローバル企業)の制御であることを示している,
という点で一考されてよいのではないか。

『谷川雁セレクション』が刊行されたから・・。2009年05月25日 20:51

『谷川雁セレクション』が出た。
先日新聞広告で知った。
「Ⅰ.工作者の論理と背理」および「Ⅱ. 原点の幻視者」の全2冊。
谷川雁は,
わたくしの中では,
きわめて特異な立ち位置を示す思索者としていまもある。
新と旧の冠を超えた左派の人というイメージである。
いまでは東大全共闘のキャッチコピーとしてのみ知られる
「連帯を求めて孤立を恐れず」は,
その出自はといえば谷川雁であった。
あの当時の学生にとって,
吉本隆明,埴谷雄高と並んで
魅力あふれるテクストの一人が谷川だったから,
あのコピーのコピーライトは谷川雁に属す。
もちろん谷川は,
全共闘という「大衆」に対しては
鋭い「知識人」ではあったが,
コピーライトをふりかざす野暮とは無縁だった。
まさに「工作者」谷川雁だったのである。

ところで,
いまなぜここで谷川雁を持ち出すのか,といえば,
きょうのゼミでの雑談が思い出させたからである。

それはゼミ生のほとんどが,
「東京では働きたくない」,
「東京での生活は考えられない」,
「そもそも東京の大学に行くなんて選択肢は考えてもみなかった」,
「東京は得体の知れない人のあつまり」etc.
と言ったことに関わる。

もはや「東京」は地方の若者を魅了し,
誘引してやまない「中心」
ではなくなった,からである。

かつて谷川雁は,
「あさはこわれやすいがらすだから 東京へゆくな ふるさとを創れ」
と喝破した。
どうしてもこれを思い出すのである。

ここには東京=中心に対する,
地方=周辺の矜持を創り出さんとする意気地があった。
ブラックホールとしての東京に対峙せんとする
地方を生み出す切迫感があった。

しかし,現在。
若者たちはこうした情意から,いっさい解き放たれてある・・。
時代の相なのであろう。