何を変える?日経「有料電子版」 ― 2010年03月04日 18:05
日経の簡易Web版〈NIKKEI NET〉が,
「日本経済新聞 電子版」に“生まれ変わる”らしい。
1日からキャンペーンが始まった。
“生まれ変わり”が,“進化”を意味するのか,
“終わりの始まり”に過ぎないのかはわからない。
「新聞メディア」の衰退が急速に進む。
全国紙の売上が,軒並みダウンするなか,
日経だけは安泰と見られてきた。
しかし,日経も例外ではなく,昨年「赤字に転落」した。
「新聞」離れは,活字離れの一端であり,
若者ばかりではなく(学生の「離れ」現象は想像を絶する!),
ヨリ広く世代を超えた現象というべきであろう。
そんな中,日経が「有料電子版」の導入に踏み切った。
おそらく,大方の関心は,こんなところにあるだろう。
すなわち,専門紙とはいえ全国紙である日経が,
大手商業紙に先駆けて電子版へと舵を切ったネライは何?
リアル紙とバーチャル紙は,
後者が伸びる分だけ前者が減る,
いわゆる「ゼロサム関係」となるのか?
結局バーチャル紙も,
有料ユーザーを吸引することの困難に逢着するだけではないか?等々。
「メディアの将来」「これからのメディア」への関心といえばよい・・。
ここでは,かぁ~るぃ気持ちで「電子版」の登録を始め,
途中「あらっ?!」と「固まった」ことを紹介したい。
朝刊(リアル紙)の定期購読者が,
電子版も購読するというのが「日経Wプラン(宅配+電子版)」。
この「Wプラン」に登録すべくアクセスした。
「有料会員登録」ボタンをクリック。
日経IDを入力。現在「宅配」をチェック。「Wプラン」を選択。
宅配の購読状況の確認を受ける(そのための住所+電話番号の入力)。
任意ではあるが,なぜか,併読紙を尋ねられる。
この後,クレジットカード情報の入力が求められる。
電子版購読の決済はカード決済しかないのである。
「あらっ?!」と固まったのが,実はここだった。
なぜか。
当方は宅配をクレジットカード決済にしているからである。
普通に考えれば,すでにカード決済にしていれば,
そのまま同じものを使うか(その場合入力は省力できる),
別のカードにするのか,
を選択するような仕組みが用意されていると思う。
が,そのオプションがまったくない。
だから「固まった」のである。
そこで電話で問い合わせてみた。
何度かのやり取りのあと,わかったのが,
有料電子版購読の契約は,日本経済新聞本社との間でなされ,
新聞配達拠点の販売店は一切関与しないということであった。
つまり,従来の販売店との宅配の契約は,解除され,
(当然,従来の決済情報は引き継がれない)
あらためて本社と契約をする形で「Wプラン」
なるものが設計されているのである。
事実上,販売店の「情報力/顧客情報管理力」を
抜いてしまうように設計されているのである。
「これからのメディア」の問題といえばその通りであるが,
「宅配」の根幹そのものに関わる問題なのである。
だから「固まり」を溶くのは容易なことではないのである。
「名残の雪」異聞 ― 2010年03月10日 12:20
朝,起きたら目の前に「なごり雪」があった。
春なのに残っている雪ではない。春なのに降る雪である。
季節はずれの雪,伊勢正三がうたい,イルカが広めた,
あの「なごり雪」の情景である。
ラジオは「24センチの積雪」と伝えた。
が,見た目は30センチ。
久しく積雪を経験しなかったので,気分は多めに見積もることになる。
出かける前に雪かきをした。
袋小路となっており,
都合限定された七世帯ほどが共用する道を“拓いた”。
行き止まりには,某大手損保の社宅があり,比較的若い五世帯が暮らす。
出勤する“損保マン”が,雪かきしている前を通る。
たった一言「おはようございます」。
これが,限定七世帯の一員のことばなのである。
これを,いかに解釈すべきか。
かつて大雪に見舞われた時,当時の“損保マン”は率先して雪かきをした。
後れをとった当方は,恐縮しつつ,作業に加わり,
会話を交えながら,短時間で仕上げた。
朝めし前のすがしい動作であった。
共同作業の“力”を実感する何かがあった。
きょうび,それが変わった。
たった一言「おはようございます」
で通り過ぎる関係に変わったのである。
雪かき作業への言及は一切ない関係へ。
これを「けしからん」,「不届きだ」とみなすか,否か。
結論は,現在の若い“損保マン”とて,
雪かき作業に加わらないことは気に掛かっており,
それが「おはようございます」という挨拶として表現された,
と考えることにした。
普段は会っても,いかにも面倒くさそうに,会釈するだけだからである。
言葉を発することは非日常そのものだったのである。きっと!!
それにしても,損保マンの若きパートナーにも驚かされた。
これまた「おはようございます」とだけいいつつ,
雪かき作業の傍,
子どもを立たせ「ハイ,チーズ」とデジカメを向けたからである。Pfui!
吉本隆明をTVで観る ― 2010年03月15日 21:44
昨夜,風呂上りにTVをつけら,吉本隆明が出ていた。
90分番組の,ちょうど3分の1が過ぎたあたりというタイミング。
吉本のテレビ出演というのは聞いたことがない。
初めてだったのではあるまいか。
ぐぐってみたら,昨年の1月4日に放映されたものの再放送と判った。
聴衆二千人に対する講演の録画は,一昨年の7月とも書いてある。
吉本の,60年を越える〈表現活動〉を凝縮して語る,という試みだったらしい。
だからか,話される内容は,すでに知っていることだった。
『言語にとって美とは何か』の,あの話である。
吉本の講演を何回ライブで聴いただろうか。
5,6回・・。同世代では少ない方だ。
今回TVを観てあらためて思った。
「芸術言語論」を語る仕方そのものが,
吉本がいうところの「自己表出」で貫かれている,と。
「論」であれば,社会的・伝達的に説かれるはずであるが
(それこそ「指示表出」的に),そうではなかった。
「論」でなお固有性が満ちている。83歳(録画時)でも変わらない。
この固有性が,吉本の分かりにくさ,晦渋につながるのはいうまでもないが,直ちには了解不能の「評論」こそが魅力の源でもあった(当時は)。
今回の,言葉を1つ,1つ選びながら,ないしは絞りだしながら,
自論を説こうとするその構えは,ついに聴くものを引き付けて離さない。
かつても決して能弁ではなかったが,紡ぎだされる言葉が,
まさに「沈黙に近いところから発せられるかのように」
独自に迫る吉本流は健在だった。
聴衆に対する「語り」というより,
まるで天空に言葉を吐くような姿勢もまた独特である。
それは聴衆と同じ方向を凝視しつつ,
「芸術言語」を共有するという意思の現われでもあった。
それにしても,番組の終わりには驚いた。ホッとした。
カメラが二千の聴衆を映し出した瞬間,
その大部分が若い世代だったからである。
ハルノ宵子,よしもとばななに惹かれて
ということではなさそうであったからである。
吉本が“吉本を全うした”ことに対する若き聴衆による,
スタンディング・オベーションだったからである。
Ach! ・・・Yep!
最近のコメント