加速度的な時代の変化2010年10月07日 19:21

最近,音波歯ブラシを使い始めた。
歯のブラッシングが“楽しくなった”ような気がする。
歯の調子もいい。
噛む(食べる)対象を選ばなくなったこともある。
しかし,
振動が結構激しい。
歯磨きペーストをのせ,電源をオンにすると,
ペーストが振り落とされてしまう。
そこで,
ペーストをのせた歯ブラシを口に含んでから
電源を入れざるをえない。
もちろん,こうした所作はなんとなく腑に落ちない。
「主体的に手順を踏む」
という感覚が得られないからである。
歯を磨く行為が,
いわば
シーケンス制御の対象となったような
そんな感じになってしまうのである。
だがしかし,口に含んでから電源を入れるというのが
音波歯ブラシでは当たり前の手順なのだそうだ。
「そんなことも知らないの?ばっかじゃないの!」
ということらしい。
時代は加速度的に変化している。

そういえば,
数日前の新聞の投書欄に,
「紙の辞書引けぬ中高生・・」
というのがあった。
投稿の主は、英会話教室経営者。
「授業中、紙の辞書を貸し与えると、決まって
『先生、これどうやって調べるん?』という反応
が返ってくる」というのである。
とうぜん,
「辞書も引けないの?ばっかじゃないの!」
ということになるが,
この場合の問題は,
世代間における所作の身体化の違いを超え,
「言葉の意味」のつかみ方の質的転換が,
生じているという点にあると言うべきである。

紙の辞書は“漠然と”ではあれ,
いわば蓋然性を感じつつ,
ながめることができ(一覧が可能で),
したがってある言葉の意味を偶々知るきっかけが
開かれている。
他方,電子辞書は,自主的・主体的に(といえば
聞こえはいいが),意味を知りたい「言葉」を入力
した時に,その辞書機能が発揮される。
偶然性は,せいぜい検索した言葉の周辺に限定されるのである。
この差はあなどれない。
〈知〉のすわり方に大きく影響していると見るべきである。
時代は加速度的に変化している。






プロ気取りの瀰漫2010年10月14日 21:43

ある医師が,ラジオで,
ネット関連の困った問題を話していた。
最近,ネットであれこれ「調べてから」
診察に来る患者が増えているというのである。
自分の症状が,どの「病」に当たるのか,
「決めた上で」現れるのだという。

病名,治療法,その治療で名の知られた医師名
などを諳んじて来るというのである。
これがなかなか厄介で,
プロの医師を困惑させるらしい。
当然,彼ら/彼女たちは,
ネット情報を正確に理解できているわけではない。

そこで次のように対応することにしたらしい。
「あなたが○○だと診断した根拠は?」と訊き,
それへの「自信に満ちた」回答に対しては,
何らそれを裏づけるものはないことを伝え,
医学生が現に使っている教科書(医学書)の
該当箇所を示す,ということにしたのだそうだ。
それで,ようやく
彼ら/彼女たちは,目の前にいるのが
プロの医師であること,自分の「診断」が
的確ではないことを悟るのだそうだ。

実にリアリティのある話である。
ネット情報を鵜呑みにし,
半可通な知識をふりまわす例は
ゴロゴロ溢れているからである。

しかし,それは同時に
fake professional(偽プロ)の瀰漫と
セットなのだと知る。
そしていま,偽プロの瀰漫が,
ネットの普及ともリンクしている。

The Shallows:What the Internet Is Doing to
Our Brains(by N.G.Carr)が,このあたりのことを
剔抉している。良書である。
が,翻訳は『ネット・バカ』。
ひたすら営業だけを優先したのだろう。
ちょっと惜しいし,残念である。
読者を『バカ』にした感は否めない。
ここでも,プロの編集者はいなかった?のか・・。




機能合理化の果て2010年10月19日 19:23

試験の点数が高ければ良い、
単位が取れれば言うことはない。
学力、知力をまとうことが問題なのではない。
点数獲得機能だけが関心事なのである。

美しく見えればそれで良い。
中からにじみ出る美が問題なのではない。
美しさを示す機能だけが関心事なのである。

儲けが多ければ良い。
自分の利益が守られれば不満はない。
他者を顧みる、環境を考えることが眼中にあるのではない。
利潤獲得機能だけが関心事なのである。

物体を破壊できればそれでよい。
物体が人間であることが問題なのではない。
物体が意思をもつ実在であることが問題なのではない。
物体を“殺す”機能だけが関心事なのである。
絶対に反撃がありえない「安全地帯」から、
つまり標的から1万2千キロ離れたところから、
モニターを凝視しつつ、
アフガニスタンの貧者兵攻撃のボタンを操作する米兵。
ゲームと違うのは、「向こうには」生きた人間がいること、
と薄笑いを浮かべながら嘯(うそぶ)く女性米兵。

対して、
貧者の兵器は、
旧式の銃と爆弾。たったそれだけ。
ただし、「自爆」将軍が爆弾を操る。
貧者の究極の兵器は「自爆」なのである。
「絶望」が生み出した Last Resort。

ロボット兵器に対して、
あるいはそれを操るはるか遠くにいる米兵に対する
「反撃」は不可能である。
しかし「報復」を止めることも不可能ではある。
しかも「報復」の場所は選ばないと想像し得る。
薄笑いを浮かべた米兵ははたして安全なのか・・。
彼ら/彼女たちの安泰は間違いないのか・・。

とまれ、
機能合理化という近代のプロジェクトは、
ITを満載したハイテク兵器(ロボット兵器)
によってここまで運ばれてしまったのである。
実に悍(おぞま)しいModerne。





常識の蒸発2010年10月28日 12:09

「文化資本」といえばブルデューである。
彼は「文化資本」のいわば下位概念として
「ハビトゥス」を提唱した。
「ハビトゥス」は個人が所属する,
ないし拠り所とする集団,群れ,仲間など
が分泌する慣習であり,作法であり,感覚
的スタイルをさす。

先日「ハビトゥス」を想起することがあった。
関西のある大学で開催されたある学会で,
学会そのものとは違った次元で,
想定外のことが連続してあったからである。

分科会会場には,
サポート役の院生か学部生が一人待機していた。
報告者がプレゼンテーション・ソフトを使って
報告を始めようとしてもスクリーンの真上に
ある灯りを消そうとはしなかった。
あとで聞いたら,
説明(マニュアル)になかったからだそうだ。

事務局サポート役の学生(院生)が,
分科会会場に連絡事項を伝えにやって来た。
伝達し終わるや,
わざわざ,
報告している最中の報告者の真ん前を通り,
屈むこともせず堂々と出て行った。

別の会場では,
伝達する際に声を抑えることもなく
普通の会話の調子だった。
しばし報告者の声が聞き取れなくなった。

名前が逆さまになったネームプレートの会員がいた。
一種の気取りでそうしているのかと思ったら,
渡されたまま自然につけただけという。
ピン留めの位置も考えずに,
名札をプレートに入れたせいだと知った。

懇親会の会場でも「想定外」は続いた。
Viking式テーブルに並ぶ大皿の一つに松茸が盛られていた。
(今年は国産の松茸が意外に安価らしい・・)
開宴後間もなく,早速サポータ役学生が近づいた。
と,思ったら,松茸をテンコ盛りにして去っていった。
仲間思い,の学生だったのか・・。
が,「愛嬌」の二文字をあてはめるには無理のある所業。
さては,サポート学生・院生をねぎらう機会は
予定されていない(?)ことへの逆襲?・・。

何れにしても,
ハビトゥスを形成する場そのものが
消えてしまったことが強く印象に残った。

いわゆる常識(common sense;common practice)が
身につかない現代人の問題が
垣間見えた余録付の学会だった。