常識の蒸発2010年10月28日 12:09

「文化資本」といえばブルデューである。
彼は「文化資本」のいわば下位概念として
「ハビトゥス」を提唱した。
「ハビトゥス」は個人が所属する,
ないし拠り所とする集団,群れ,仲間など
が分泌する慣習であり,作法であり,感覚
的スタイルをさす。

先日「ハビトゥス」を想起することがあった。
関西のある大学で開催されたある学会で,
学会そのものとは違った次元で,
想定外のことが連続してあったからである。

分科会会場には,
サポート役の院生か学部生が一人待機していた。
報告者がプレゼンテーション・ソフトを使って
報告を始めようとしてもスクリーンの真上に
ある灯りを消そうとはしなかった。
あとで聞いたら,
説明(マニュアル)になかったからだそうだ。

事務局サポート役の学生(院生)が,
分科会会場に連絡事項を伝えにやって来た。
伝達し終わるや,
わざわざ,
報告している最中の報告者の真ん前を通り,
屈むこともせず堂々と出て行った。

別の会場では,
伝達する際に声を抑えることもなく
普通の会話の調子だった。
しばし報告者の声が聞き取れなくなった。

名前が逆さまになったネームプレートの会員がいた。
一種の気取りでそうしているのかと思ったら,
渡されたまま自然につけただけという。
ピン留めの位置も考えずに,
名札をプレートに入れたせいだと知った。

懇親会の会場でも「想定外」は続いた。
Viking式テーブルに並ぶ大皿の一つに松茸が盛られていた。
(今年は国産の松茸が意外に安価らしい・・)
開宴後間もなく,早速サポータ役学生が近づいた。
と,思ったら,松茸をテンコ盛りにして去っていった。
仲間思い,の学生だったのか・・。
が,「愛嬌」の二文字をあてはめるには無理のある所業。
さては,サポート学生・院生をねぎらう機会は
予定されていない(?)ことへの逆襲?・・。

何れにしても,
ハビトゥスを形成する場そのものが
消えてしまったことが強く印象に残った。

いわゆる常識(common sense;common practice)が
身につかない現代人の問題が
垣間見えた余録付の学会だった。



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