「多様な解のある課題」とディスカッション2010年12月05日 14:37

ノンフィクション作家の柳田邦男が、
この国における教育を嘆いていた(『河北新報』12月3日付)。
「知識偏重と正解が1つの試験成績の向上ばかりに力を入れてきた」
のではないかと。
もちろん、
同様のことはこれまでも多くの論者によって指摘されてきた。
柳田の文章で興味を呼ぶのは、
「真の知的水準を上げる」と柳田が考える具体例をあげている点である。

東京都江東区のある小学校6年生の学級討論会の事例として、
次のように述べる。
教師が黒板に次のようなことを書いた。
「水族館の生きものは幸せである」。
イエスと思うもの、
ノーと考えるもの、
さしあたりどちらとも言えないとするもの、
に分かれディスカッションが始まった。
それぞれのグループが、なぜそう判断するのかの理由を、
考えられるだけあげる格好で、
生き生きとした発言が飛び交う場が生みだされた。

これをうけながら教師は、
「どちらかに軍配を上げることはしないで、
一人一人が自分で考え、意見を出し、
相手の主張にも耳を傾ける大切さを強調して、
授業を終わりにした」。
要は「多様な解のある課題をどうとらえ、
どう対処すべきかを探る思考力」
が最も求められるものにほかならない、と柳田は主張しているのである。

確かに、
いまの大学生は発言した相手に異議をとなえ、
反論するということができない。
いな、知らない。
それぞれの言い分が交差することを経験したことがないのである。
Dialecticsの醍醐味を覚える場をもったことがないのである。
だから、大学生には、まずは小学6年生でもできる、
双方向でやり取りする快感を知って「いただく」
ことが必要なのである。

こんど黒板に「書も読まず、何もせず、
単位を取得して卒業する学生は幸せである」
と書いてみようと思う。
イエスかノーかどちらでもないか、
その理由を可能な限り挙げよといいながら・・。

シューカツとエントリィシート2010年12月14日 21:11

ブログの更新がままならない。
とりあえず「手控え」のつもりで、
きょうあったことを書いておく。

学部の3年生が就活をはじめて3ヶ月。
長~い、体力勝負の序盤戦が終わろうとしている。
「シューカツ」が“葵のご紋”と化す期間が延々と続く。
「シューカツなので」と一言発すれば、
これがすべてに優先する(かのような)日常。
“名ばかり大学”がヨリ一層磐石となる日々。

そんな中、
ゼミ生数人が「相談が・・」と寄ってきた。
きけば、
エントリーシートを書いたので添削して欲しい、とのこと。
初めてのことである。
これまで、エントリーシートの添削は未体験ゾーンに属してきた。
それだけ現実は切羽詰まっているのである。

メールに添付されたファイルを開く。
懸命に綴った跡がうかがえる。
日頃の言動とはいささか次元が違う印象がある。
が、通り一遍の文章であり、インパクトはない。
なぜ、この企業に入りたいのかの
切実さも皆無である。
どうも、「エントリーシートの書き方」マニュアルを
下敷きに作成したもののようだ。
だから形としてはどこにでも通用する格好となっている。
ということは、もちろんどこからも評価される対象では
ないということにほかならない。

企業の個別性にもふれているものの、
企業側からすれば、「みんなそれを言うのよね」
でお仕舞いとなるような代物。
これまで、
60社受けたとか100社近いとか言っていた過去のツワモノは、
なにゆえにその痛苦に耐えることができたのだろうか。
まさか原シートがあって、
ほとんどそのままコピーして
というのではあるまい・・。

とまれ脱マニュアルというやり方を
「マニュアル化」せず伝授できるかの
試行錯誤が始まった。
これも給料のうち・・。



百年という時間2010年12月24日 20:48

間もなく2011年を迎える。
百年前は1911年である。
「今日は帝劇,明日は三越」
がキャッチーなフレーズとなり,
「高等遊民」が“新語大賞”(?)を獲得した。
「映画」では(怪盗)ジゴマが,
空前の大ヒットをとばしたともいわれる。

他方,1月には
幸徳秋水など12名が処刑された
「大逆事件」があり,
8月に特高(特別高等警察)が設けられた。

すなわち
European way of lifeが,
一世を風靡していたのである。
それゆえ,
「社会主義」や「キリスト教」が
青年をひきつけていた
のは想像に難くない・・。

本日はクリスマス・イブ。
次のような記事が目にとまった。
「クリスマス ,36.3%が興味なし」
日本人の3人に1人は,
「クリスマス?」「別にぃ」
というのである。
形としてのクリスマス,
情趣としてのクリスマス
も神通力を喪失した・・。

百年という時間が経過し,
「社会主義」も「キリスト教」も
遠景となってしまったのだろうか。

どうやら今年は「ホワイト・クリスマス」・・。




背伸び、の効用2010年12月29日 22:24

日経の「ミニシアター閉館ラッシュ」という
記事が目にとまった。
表現の固有性を特徴とする映画をみせる場
が消滅しつつあるというのである。
この3年で渋谷のミニシアターから
8スクリーンが消え、さらに
間もなく恵比寿ガーデンシネマが閉じ、
来年にはシネセゾン渋谷も閉館するという。

記事は、背景として
大型シネコンの出現があると分析する。
いまや同一空間の多様な選択肢から
選んで見るのがスタイルなのであり、
1館1映画の時代ではなくなった、のだと。

ま、それはそうかもしれない。
でもより根源的には、
同時に紹介されている
キネマ旬報映画総合研究所の掛尾良夫の
「観客としての若者の変質」という指摘
に注目すべきであろう。

「変質」というのは、
かつての若者は
「難解な映像作家や知らない国の映画を
背伸びして見る」
ことをかっこいいととらえたが、
現在は「分かりやすく親しみやすい邦画を
見に、大きな劇場に向かう」という対比
としてとらえられる。

そうなのである。
かつては、
背伸びすることに憧憬し、
簡単明瞭に魅かれることを拒否しつつ、
ヨリ難しいことをよしとしたのである。
あがくこともまたたのしだったのである。

映画だけでなかった。
文学しかり、音楽しかり、美術しかり、
哲学しかり、いわゆるサブカルだって・・。

フェリーニの8 1/2 に一撃されたあの記憶。
自分がふっとばされたあの衝撃があればこそ。

すべてがそのまま理解可能で、心地よい、
ということが人を育てることにつながる
というのはどうしても胡散臭さを免れないのである。