押し出された「八百長相撲」2011年02月08日 10:15

「現象」はマスメディアが煽る
一瞬の消費対象に過ぎないと記した。
立春あたりには,
次の話題がでてくるだろうと・・。

果して,,
「八百長相撲」が飛び出してきた。
テレビ,ラジオがトップニュースとして取り上げ,
新聞でも一面で報じる“重大記事”扱い。

月並みとの謗りを恐れず,
広辞苑で「八百長」をひいてみる。
最初に出てくるのは,
「相撲や各種の競技などで,
一方が前もって負ける約束を
しておいて,うわべだけの
勝負を争うこと。なれあい勝負」
という叙述。
つまり,
相撲と「八百長」は辞書に載るくらい
古来深いつながりがあることがわかる。


大相撲は,伝統芸能であり,
いわゆる興行なのである。
これを近代スポーツと同一視するから
いろいろこんがらかってくるのである。

むろん,スポーツに近づこう
としてきた一面はあった。
しかし,髷を結い,まわしを付け,
塩をまき,儀式としてのにらみあい
を表出する限りにおいて,
ついにスポーツとはならずに来た。
「人情相撲」とか
「こしらえ勝負」(昨日の『天声人語』)
といった固有の世界を保ってきた
ともいえる。
フリークのあり方を“重量”におき,
それに沿って肉体を造りあげた役者,
それが大相撲の力士なのである。

要は「八百長」というキーワードで
大新聞が一面で取り上げるような
代物ではないというべきである。

大学は入試と卒業の季節を迎える。
「卒業」といえば,
義務教育の水準さえ
覚束無いことを知っていて
学位を与えるというのが現実
となって久しい。
いわゆる「出来レース」である。

「出来レース」のシノニムに
「八百長」がある。

本来,
大新聞が,大マスメディアが
大々的に取り上げるべき
「八百長」は
随所にあるというべきである。

もちろん
こうした「八百長」は,
「八百長相撲」という
大新聞,大マスメディアにとっては
所詮,一過性の消費対象にすぎない
のとはわけが違う。
まことにdeepな「八百長」なのである。

「伊達直人」現象2011年01月13日 21:38

伊達直人現象が話題をさらっている。
匿名の善意とか,
匿名の寄付といったタームが躍っている。

クリスマス(12月25日)の日,
前橋市の児童相談所に
伊達直人という名で
ランドセル10個が届いた。
これが発端だった。

それが昨日からきょうにかけて,
「社会現象」として各紙が一斉に,
取り上げるまでになっている。

各紙の「分析」のなかで,
最も印象に残ったのが,
毎日新聞が紹介している
「流行の現象に便乗して現代を
生きている充実感を味わいたい
という心情」(森真一・現代社会論)
という指摘だった。

つまり,
今回の現象を「慈善」,「利他心」などの
発露としてとらえ,
「一過性にするな」とか
「寄付文化の定着を」といった
願望が語られているが,
実は,
そうしたコンテクストにつながるような
現象ではないと見るのが正解なのである。

21世紀になって,
この国でますます際立ってきた
ワンフレーズで言い切る
「小さな物語」に大勢で群がり,
これをしゃぶりだけしゃぶって
あっという間に消尽してしまう,
お馴染みのあの「現象」にほかならない。

これを媒介するのはもちろん「メディア」。
しかも,映像メディア。
すなわちTVと動画サイト。

全国紙(読売,朝日,毎日,日経)
のデータベースにあたってみると,
12月25日の前橋の事例を取り上げているのは
読売だけ。
しかも12月28日のたった1件である。
これを例外として,
記事の形であらわれるのは,
1月6日以降に過ぎない。
この日を境に関連記事が急増している。

ということは,
メディアが「伊達直人現象」を煽り立て,
これに便乗して,
多くの人が「現代を生きている充実感」
を覚えるべく
「現象の輪」に跳び込んでいるとしても,
活字メディアよってでは決してない。

やはり,映像の力である。

でも,刺激がそれだけ強い分,
覚めるスピードもすさまじいと予測できる。

見ててごらん,
概ね立春過ぎたら,
次の話題が飛び出すから,ね。




「名残の雪」異聞2010年03月10日 12:20

「名残の雪」は,“超芸術トマソン”の階段も演出した

 朝,起きたら目の前に「なごり雪」があった。
春なのに残っている雪ではない。春なのに降る雪である。
季節はずれの雪,伊勢正三がうたい,イルカが広めた,
あの「なごり雪」の情景である。
ラジオは「24センチの積雪」と伝えた。
が,見た目は30センチ。
久しく積雪を経験しなかったので,気分は多めに見積もることになる。

出かける前に雪かきをした。
袋小路となっており,
都合限定された七世帯ほどが共用する道を“拓いた”。
行き止まりには,某大手損保の社宅があり,比較的若い五世帯が暮らす。
出勤する“損保マン”が,雪かきしている前を通る。
たった一言「おはようございます」。
これが,限定七世帯の一員のことばなのである。

これを,いかに解釈すべきか。

かつて大雪に見舞われた時,当時の“損保マン”は率先して雪かきをした。
後れをとった当方は,恐縮しつつ,作業に加わり,
会話を交えながら,短時間で仕上げた。
朝めし前のすがしい動作であった。
共同作業の“力”を実感する何かがあった。

きょうび,それが変わった。
たった一言「おはようございます」
で通り過ぎる関係に変わったのである。
雪かき作業への言及は一切ない関係へ。
これを「けしからん」,「不届きだ」とみなすか,否か。

結論は,現在の若い“損保マン”とて,
雪かき作業に加わらないことは気に掛かっており,
それが「おはようございます」という挨拶として表現された,
と考えることにした。
普段は会っても,いかにも面倒くさそうに,会釈するだけだからである。
言葉を発することは非日常そのものだったのである。きっと!!

それにしても,損保マンの若きパートナーにも驚かされた。
これまた「おはようございます」とだけいいつつ,
雪かき作業の傍,
子どもを立たせ「ハイ,チーズ」とデジカメを向けたからである。Pfui!

   


まつりのあと―知事選終わる2009年10月28日 22:04

知事選が終わった。
3日経った。
現職が強かった。
候補者だった先輩は,供託金の没収は免れた。
が,当選者に,例えば公職選挙法に違反した事実が発生し,
失職したとしても,繰り上げ当選にはならない。
それほどの壊滅的な票差。
敗因について,いろいろ分析はできる。
しかし,ここではふれないでおこう。
候補者本人も,
いいたいことが山ほどあるようだ。
しかし,敗軍の将は・・語ら(れ)ない。

たまたま今回の知事選のことを話していた,
旧知の,ある出版社の社長からメールが届いた。
東京では,選挙戦の様子は何もわからなかったようだ。
報道で結果を知って送ってくれたのである。
そのなかの一節。
「小泉改革ではもろ手を上げて賛美して自公連立政権が磐石かと思っていたら,
数年にして逆転してしまいました。
吉本のいう『大衆の原像』は,
支配的イデオロギーに包摂された民衆に裏切られても,
そこに潜む生活実感は,信頼に値するのだ,
連帯を求めて孤立を恐れず,
という思想を信頼するしかないのだ,
という内実はなかなかつかみきれない・・」。

信頼に足る民衆の生活実感。
これに届く言葉をひねりだせなかった。
現職の,
つねに満面にたたえた笑みは,
それができたのかもしれない。

選挙戦がいよいよ終盤にさしかかった時,
読売新聞が,
「民主みこしから刷新を叫ぶ」
なる記事を載せた。
アイロニーを感じさせつつも,
トーンとしてはけっこう好意的な内容だった。

“みこしの上で改革を叫ぶ”。
これは何かに使える。
片山恭一のセカチュー
をもじった“ミコジョー”である。

それはともかく,
敗戦の弁で「私の不徳の致すところ・・」
と言ったのをとらえ,
ある新聞社の若い記者は
「どんな点の不徳か?」と詰め寄ったらしい。
いまどきの記者なのである。
定型の妙,ことばのあやにあまりにも疎すぎ・・。