大学から「夏休みが消えた」2010年08月04日 12:28

駆りだされた前期末試験監督を済ませてきた。
これでようやく夏季休暇を迎える。
昨年までと比べれば20日前後遅い「大学の夏休み」。
なぜこうなったか。それはひとえに教育の本質を
知らない文科省と文科省のいいなりになっている
大学の管理運営者の意向による。

昨今,大学生の学力が低下した,と文科省はいう。
だから講義は半期15コマ(回)を必ず行う対策が必要,
だと主張する。通年科目であれば30コマとなる。
何らかの事情で休講にした場合には補講によって充足
すべしともつけくわえる。もちろん,補講する時間を
あらためて確保するなどというのはほとんど不可能である。

ともあれ,「教育の本質を知らない文科省」と言ったのは,
「学力の低下」に対して授業を実質「3コマ」ほど増やせば
対策になると主張するナンセンスに対してでである。
近代は数量革命を本質としてきた。いわゆる形式知を
何よりも重んじ,数値化・言語化しえないものを二の次
とみてきた。教育とは,教育の成果とは,数値化できる
何かですべてが判断されるわけではない。むしろ,数値化
や言語化を超えた能力をわがものとするところにその意味
がある。

教育の意味を問わず,教育の方法をそのままにして,授業
を現状より3回くらい増やせば問題は解決できることにする,
という姿勢が何よりも問題なのである。3回増は7月いっぱい
授業が続くことを意味する。
大学運営者は,こうした文科省のスタンスを批判しない。
批判するだけの学力・知力をもたない。
批判すると必ず出てくる恫喝がこわい。
補助金カットに震え上がるだけである。
まさに猛暑なのに,である。

夏休みは,何よりも「暑い!」から設けられたのである。
「暑い!」と,授業をするのも受けるのもしんどいから
レギュラーのプログラムを空白にしたのである。
「暑い!」を各自それぞれのやり方で愉しむことが「べんきょう」
となると見たからフリーの時間を設定したのである。

きょうから始まった前期末試験,10日まで続く。
だから学生諸君の夏休みは8月11日からである。

みちのく仙台では,明後日から3日間「七夕祭」がある。
地元の人は昔から,「七夕」が終わると,海には入らない。
もう秋だからである。

ことしから「大学の夏休み」は消えたのである。


脱ゆとり教育の行方2010年03月31日 22:34

今朝の新聞は,小学校教科書の「文科省検定」を取り上げた。
とくに朝日は多くの紙面を割いて紹介している。
1年後に始まる「脱ゆとり教育」を意識した記事となっている。
朝日が注目するのは,教科書のページ数が大幅に増加すること。
一面トップに「全教科合計で25%増」とある。
社会面の見出しは「分厚い教科書 先生大変」であり,
「教えきれるか心配」である。

しかし,これでは表面の問題をあげつらっているに過ぎない。
いいかえれば,そもそも「ゆとり」へと転換した背景は何だったのか,
それのどこに問題があったのか,
を突き止めようとする視点が希薄なのである。

脱ゆとりのきっかけとなったのは,
OECDPISA調査というのが大方の見方である。
同調査は「読解や数学の力を生活の場で応用できるかを問う」
ところに特徴がある。
日本の子どもたちには,この「応用する力」,
「活用する力」が欠けているという結果が出たがゆえに
「すわ大事!」となった。

しかし,ゆとり教育こそ「読解や数学の力を生活の場で応用する」
のを目ざしていたのではなかったか。
ゆとり教育の汚名を一身に背負ってきた円周率も,
生活の場面での「応用」を念頭におかれたものであったときく。
二人のこどもが手をつないだらちょうど木のまわりと重なった。
両手を伸ばした長さは概ね身長と同じだから,
二人の身長をあわせて270センチだとすれば,
3で割ったら木の直径は大体90センチと分かるでしょ,
ということである。
生活日常で「使ってみるたのしさ」が想像されるというべきであろう。

ゆとり教育の仕掛け人として評判が悪い寺脇研が,
最近テレビではこんなことも言っていた。
「最近の子どもは,鎌倉幕府ができた年号も言えない,といわれるが,
それはある意味,当然である。なぜなら,鎌倉幕府はある時突然出来
たわけではなく,
10年近い時間の経過のなかで形成されたのであり,
1192年というのはその集大成として源頼朝が征夷大将軍についた年
でしかないからである」。

つまり,ゆとり教育の考えが,結局空振りに終わったことに眼を向け
るべきなのである。それは,つづめていえば,教育の哲学が理解され
なかったからであり,教育の方法が明確でなかったからではないか。

このあたりをおさえないと,脱ゆとりへの転換も,つめこみ教育復活!
ということになってお終いとなるのは,いまから目に見えるようである。




球春の到来,入試の到来2010年02月02日 11:40

昨日から入試が始まった。
プロ野球のキャンプインにあわせて,というわけではない。
大学の「一般入試」の解禁日が2月1日だからである。
どうしても他の大学にさきがけて受験生を囲い込む必要が
あってのことである。もちろん受験生の囲い込みは、新入
生の囲い込みは意味しない。とまれ、学部・学科での凸凹
はあるものの,今年の志願者数は,全体として横ばい(微減)
であった。きょうび,地方私大で,微減にとどまるのは僥倖
というほかない。対外的に訴求できる何かをもっているわけ
でもないし,受験生を魅了する特別な工夫を施したわけでも
ないからである。

昨日の日経の朝刊に,「赤字の私大 4割超す(2008年度)」
の記事があった。金融危機による,資産運用益の減少と有価
証券の評価損が,その背景だという。近時の私立大において
は,金融資産をいかに運用するのかが大きなポイントとなっ
ている。カジノ化に組み込まれ,ハイリスク-ハイリターン
の世界にとびこんでいるのである。
教育の民営化,大学の企業化が,教育機関の金融化にまで進
んでいるというわけである。下手をすると授業料(相当額)
が一瞬のうちに消えてしまうかもしれないからである。

日経の記事は,日本私立学校振興・共済事業団のデータによって
いるが,もっぱら大学の資産運用に絞って取り上げた形になって
いる。多くの大学は,受験人口の減少(定員割れ)や補助金の
カットといった問題を抱えていることには言及していない。

もちろん,定員を確保していることが,まっとうな教育機関で
あることを示すものではまったくない。過日,年度末試験の答案
を採点し,だれもが読んで,内容がわかる文章を書ける学生が激減
しているのをあらためて知った。

昨日から,入試答案を前にしながら,まともな文章を書ける学生は,
この中にどんだけいるのかと,
不安・危惧・憂慮・懸念・心細さ,が渦巻き,
鬼胎を抱き,寒心に堪えない・・。




発想の転換2010年01月13日 21:18


私大の年度末は早い。
一年生向「大学入門講義」が,まず終了。
全員に“総括”を話して「いただいた」。
講義のネライだけは伝わったようである。
「何を言えばいいのか」がわかる,つま
り「場を読む」ことができる,とは思わ
れないから,「本心」を語ったのだと思う。

「レジメって,はじめて知った」
「ディベートが面白かった。意見を言い合
うなんてやったことがなかったから」
「ディベートの司会って,それぞれの発言を
理解しないとうまくいかないことがわかった。
難しかったけど,楽しかった」
「発言して,誰かにコメントしてもらったら,
最初の考えが変化した。初めての不思議な体
験だった」
「新聞やテレビのニュースを意識するようになった」
「新聞を読むときに,ホントなの?なぜこんな風に
いえるの?って思うようになった」
「発言することに臆病だった。間違っているのが
こわかったから。でも,ミスってもいいからまず
発言するのが大事だとわかった」

もちろん,かつてであれば,
1年生でも「議論」をした。それも激しく。
新聞を読んだ。それも糾弾しながら。
レジメを書いた。それも怒りを交えて。

いまは違うのである。
『中央公論』2月号。背表紙に〈大学の敗北〉とある。
その「特集」の最初が養老孟司。その冒頭に
「大学生の学力がひと昔前の小学生並みになっている」
とある。
その通りである。
しかし,現実を出発点とするならば,
こんな風に考えるのがよさそうである。
小学生だったら,鍛えようがあるじゃないか,と。
砂地に水が吸い込まれるダイナミズムを知るべし,と。

今年は発想の転換をはかってみよっと・・。