深遠なるかな〈カーリング〉2010年02月20日 21:52

昼食時,TVをつけた。
冬季五輪のカーリング(
women)を実況中継していた。
日本(チーム青森)
VS英国。スコットランドが発祥の地という
カーリングを見るのは初めてだったが,いっぺんに惹きこまれた。

ルールは知らない。
アナウンサーや解説者の発するテクニカル・タームもまったく分からない。
でも,瞬時に心を奪う何かがあった。
果たしてこれはスポーツなのか?と。
瞬発力,持久力,筋力といったいわゆる身体能力に
テクニックや精神力等が絡むというのがスポーツ
だとすれば,カーリングなる競技は,その範疇のい
かなる位相に属するものなのか?

“標的”めがけ,
30メートル以上離れた位置から,
ストーンを手離す(スライドさせる)。
“標的”は,空間(リンクの中のある範囲)であったり,
相手ないし自分たちのストーンであったり,
競技の局面によって激しく変わる。
複数のストーンであることもある。

そのような状況において,
例えばわずか数センチの差異を,
30メートル離れた地点から適確につかむことが要求される。
しかも,想像・想定したとおりにストーンが到達するように,
ストーンを手離す繊細な制御感覚をもたねばならない。
時々刻々と変化する「氷」の質・状態を見極めつつ,
ストーンの摩擦状況を判断しなければならない。
ストーン同士の接触による微細な反撥・撥ねかえりを
読まなければならない。

まさに競技者(アスリート)であると同時に科学者の眼
をもつことが求められるのである。
スポーツの範疇はこれまでの常識をはるかに超えて拡大
しているのだろうか・・。

カーリング競技には,審判/ジャッジする者は不在という
のもどこか哲学のようなものを感じさせる。
きょうは,
少っち,賢くなった。Yep!!




「現在」は点ではない,それは幅をもつ(野家啓一)2008年06月23日 22:17

昨日の午後は,仙台文学館に足を運んだ。「小池光ことばのセッションvol.5 」を拝聴。今回のタイトルは「物語と科学のあいだ~野家啓一氏を迎えて」。野家は,この国における科学哲学研究の第一人者である。とはいえ,小池も,1つ下の野家も,高校の部活で交遊がはじまり,すでに40何年となる旧い友人である。だから,「歌人として高名な小池」とか「日本哲学会の会長も務めた野家」とかいわれたとしても,それは裃をまとった二人でしかなく,どうも落ち着きが悪い。いまにして思えば,旧制高校風の雰囲気がまだ色濃く残っていた高校生活でのイメージの方が断然かってしまう。高校に入るや,「“疎外”とは何ぞや?」と問う先輩がおり,それから間もなく茶碗酒の味を知り,「デカンショ節」や「旧制高校の寮歌」をおぼえ,ときに「春歌」も歌ったあの時代。「善の研究」やら「愛と認識の出発」やら「三太郎の日記」やらに取り組み,咀嚼かなわぬまま実存主義やマルクス主義を懸命にかじった。戦後民主主義の虚妄,国家独占資本主義を俎上に載せることを試みたのもこの時期だった。むろん,そのいずれもが稚態の次元にとどまっていたが,この「背伸び」し「見栄をはる」若さは貴重であり,すて難いものだったと今振り返ってしみじみ思う。

さて,昨日のセッション。知的緊張が心地よく持続する,まことに得難い90分であった。日常語として何気なく用いている言葉,すでに概念という装置を抜きにしては近づけない言葉を取り上げつつ,縦横に語る,そのダイアローグは聴衆をも巻き込んで飽かさなかった。とりわけ印象に残ったのが「時間」。

野家は,「時間」には2つの側面があるという。1つは,物理的運動としていわば等間隔で計測可能な「時間」であり,もう1つは,「現在」を中心に「過去」と「未来」に広がりをもつ「時間」だとする。こうした発想は,労働の持続に対応する「時間」や効率を浮き彫りにする「時間」を取り上げる経済学では到底およばない。むろん経済学の欠陥という問題ではなく,経済学は近代になって初めて誕生した学の体系に過ぎないことを示している。経済学の射程は高が知れているのである。

で,野家の真骨頂は「歴史」を「物語り」においてとらえるその視座を示す点にある。「歴史」は,事実として存在する,というのではなく,さまざまな要因がネットワーク上に織り上げられて生成するというのである。「歴史」(history)とは,まさに「織物」(tapestry)にほかならないというわけである。

こうして,セッション後もいくらでもその次を聞(訊)いてみたいと思う話が延々と続いた。やむを得ない事情があり,小池はジョッキ1杯だけで新幹線の人となったが,河岸を変えて入った,まるで1960年代風の居酒屋では野家と二人,ずらりと徳利が並ぶ昔懐かしいあの光景が,何年ぶりかにできあがった。「過去」は,まさに「現在」の広がりにあることが実感された瞬間でもあった。