麻生の「文化水準」とネット社会2009年07月15日 20:41

麻生ネタの川柳
先週,蔵王に行った。
東京からやってきた若き友人たちとの,
温泉を楽しむだけのいささか贅沢な時間だった。
夕食前のひととき,温泉の神の社という
「酢川神社」に足を伸ばした。
そこに「川柳坂」という階段があり,
訪れた人たちの投稿した「川柳」が,
石灯籠に書き込まれていた。
読みながら行くと,
結構きつい階段だということを
意識せずに上れたという点で,
一つのアイデアだと思わされた。

“iPodすぐに沸くかと祖母が訊く”とか,
“ガス抜きに誘ったつもりが引火させ”とか。
作品は,オリジナリティを感じさせるものから,
既にどこかで見たような,
というものまで幅がひろい。
どこかで見たような,の1つが上の画像。

ところで,その首相の,
「マンガ問題」と並ぶ「漢字問題」。
偶然,こんなのがあるのを知った
どうもマスメディアは流さなかったようだが,
底抜けのひどさは想像以上である。

この動画像を1つ見ただけで,
あるわ,あるわ,
あそう,をおちょくったのが,
次々とでてくる。
ネット時代にいることを気づかされる瞬間である。

そういえば,Googleが,今朝の全国紙に載せた,
〈未来のためのQ&A〉という
全面広告。
今回はともかく,
(総)選挙が,大きく変わるかもしれないと
思わせる新しい試みと読める。
もちろん,こうした新しい仕組みに対しては,
いろいろあぶないこと,
憂うべきことが生じるだろう
と想像力をもつことが必要である。

全国知事会が,
政党マニュフェストに
点数をつけるという発想と通底するような,
きわどいsomethingだろうからである。

「新聞没落」という特集2007年09月25日 22:58

先週の『週刊ダイヤモンド』。「新聞没落」という特集が載った。今では「古くて新しいテーマ」の1つとなった新聞衰退問題。全国紙・ブロック紙・地方紙を問わず直面しているきわめて深刻な問題である。新聞社の経営基盤は、概ね3つの柱からなる。購読料と広告収入とその他(不動産収入・イベント収入・出版事業etc.)。購読料を1とすれば、広告収入0.7、その他0.4というのが相場のようだ。

新聞没落問題というのは、とりあえずこれら収入源がぐらついているという形で現象している。購読者(定期+スポットとも)が減少し、広告を載せるスポンサーも減っている。その背景となっているのが“メディアの交代”。もちろんネットが主役へと勢いづいているのが現実だ。ただし、ダイヤモンド誌によれば、女性はTVというメディアに依然ひきつけられているという。考えなければならない問題はネットのメディア特性であろう。

きょう、福田が総理の椅子に座った。昨日は安倍の謝罪会見があった。国民に対しての詫び、というよりも、基本は政府・与党に向けたエクスキューズ。会見は、用意してきた原稿を読みあげる格好のもの。その限りでは、貧しいながら文章になっていたというべきか・・。安倍は「美しい国」「戦後レジームからの脱却」なるコピーをもって登場した。とはいえ、それはつまるところ抽象的イメージにすぎず、観念の域を出るものではなかった。だからリアリティはなかった。小泉の「郵政民営化。イエスかノーか」「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」などのフレーズが国民のきもちをどれだけキャッチしたのかを思うと、その対照に驚かされる。

つまり、問題は、フレーズが、しかもワンフレーズが跋扈する現状。ネットなるメディアが前景化するのも、たとえば小泉がとったワンフレーズ・ポリティックスが流行る状況のなかでということになる。コミュニケーションの有力なツールである電子メール。そこでは、絵文字、顔文字を含む、かぎりなく定型的なフレーズがとびかう。コンテクスト離れ。文字離れ。ストーリィ離れが浮き立つ空間なのである。現代の人々が惹き起こしている新聞没落(=新聞離れ)が問いかけるのはまさにこのことではないか。リアルの新聞を読まない人たちは、ニュースだったらそれこそ新聞社のサイトにアクセスすれば読めるではないかという。しかし、もちろん、ウェブ・サイトの記事はリアル紙のそれとは大いに違う。文章の量は何分の1になるのだろうか。それこそキャッチ・コピーに限りなく近い文の量ともいえるのではないか。文章から縁遠くなった現代人。例えば久々に英語の世界に放り込まれたとしてみよう。そこで直面するのは、単語、ワンフレーズしか出てこないオソロシか世界ではないか。新聞没落の世界の状況はまるでそれとおんなじ・・。

ちょっとだけ「ブログとは?」を考えた2007年05月29日 19:54

先日、ある友人とブログって何だろうね?ということになった。その友人は 近々ホームページとは別にブログを開こうと思っているという。でも、そのス タイルをどうするか、いまいち決めかねているのだというのである。いわゆる Web-Logの祖型ともいうべき日記型でいくのか。つまり、身近に起きた出来事を モチーフとして、“実”に走るか“虚”に走るかはともかく、生活日常が何らか の意味でsourceとなるスタイルでいくのか。つまりいまのブログの主流にのる のか。あるいは、自分の考えを表出するブログを目指すのか。ただし、その場合 でも、考えを表出する契機が、自分の体験やその類であれば最初のスタイルに 限りなく近づくし、第3者(Webや新聞やテレビや雑誌など)であれば、いわゆる 評論ものになる。

詩とか歌とか句とか曲(音つき)を載せるというのも もちろんある。新聞小説風に毎日つないでいくというのだって珍しいわけではな い。またいわゆる定点観測風にじっと目の前のものを画像として差し出すという、 うまくいけばうんと風情を感じさせるものもある。

こう見てくると、ブロ グって実に多様であることがあらためて分かる。実際にはこれらのすべてを混在 させるというのが多いのかもしれない。と、いうことで、実に凡庸な結論に落ち 着いた。「何でもあり」。近々、友人が実際にブログをはじめたとき、さてどんな顔をしたものを 見せてくれるのか、大いに期待しようと思う。

ワーキング・プアはデジタル・プアと見つけたり2007年05月22日 08:46

今週の『アエラ』 に「デジタルプアの見えない壁」という特集記事が載っている。 サブタイトルは「携帯オンリーが陥る下流スパイラル」。タイトルとサブタイトル からおおよその見当はつく。携帯さえ持っていればメールもネットもでき ちゃうから、パソコンは要らない、という「携帯オンリー族」がさしあたりデジタ ルプアということになる。しかし、記事を読むと問題の根はかなり深そうである。 デジタル・デバイドという用語がある。ワーキング・プアというのも深刻な問題だ。 最近では「ネットカフェ難民」というのも出現した。デジタル・プアというのは、こ れらすべてをひっくるめた概念とい見た。

働いても働いても満足 に生活ができないワーキングプア。彼らは寝所もままならない。だから雨露をしのぐ ためにネットカフェに引き籠る。しかし実はそこでパソコンを使ったネット世界に習 熟するわけではない。ひたすら仕事が入るのをケイタイ片手にじっと待つ。ケイタイ だけは手放せない。ケイタイは文字通り命綱となっている。

パソコンのアプリ ケーション・ソフトが使いこなせると時給が高い。しかしデジタル・プアは、習得 する時間もなければ費用の捻出もままならない。特集記事はこうも言う。「コンピ ュータスキルは、中学3年の時点で『家庭の生計維持者がホワイトカラー』だと高まる」と。 この「15の春」がその後を決定付ける構造ができているということだ。パソコンの ネット利用者は、「今年、20代の家庭のパソコンからのアクセスが初めて前年を下回った」。 つまり、ケイタイ依存の20代がそれだけ多くなっている。『アエラ』は「デジタル・プア」 のすぐ後に「2.0時代の携帯ビジネス」を企画した。先日ドコモがいくつかの全国紙 に全面広告、「さてそろそろ反撃してもいいですか?」を解説するような記事。そこで は、ケイタイがますますパソコンに近づいている現実を取り上げている。ケイタイさへ あれば、という幻想と詐術の喧伝と読めてしまう企画・・。

そういえば、ケイタイ を使うほど日本語がダメになるという分析 もあったっけ・・。