2006年、人々の欲望を刺激した商品たち2006年12月01日 22:49

きょうの『日経MJ』。恒例の「ヒット商品番付」が載った。ざっと見てみてみる。東の横綱「デジタル一眼レフ」と西の横綱「ショッピングセンター(SC)」。大関は「ICキップ」(東)と「軽Car(軽自動車)」(西)。関脇、「メタボリック対策商品」(東)と「脳グッズ(ニンテンドーDS Lite)」(西)。小結は「ウェブ2.0」(東)とフルハイビジョン(西)。以下、前頭上位に、東は、高校野球、プレミアムビール、キッザニア東京、「ジェットストリーム(ボールペン)」、ワンセグ。西は、引退、プレミアムシート、アンチエイジング、「植物性乳酸菌 ラブレ」、新型コンビニ、等等。

こうしてリストアップされた面々から社会が、時代が、読み解けるのだろうか?1つは「モノ復活」(?)。デジタル一眼レフ、軽自動車、フルハイビジョンは確かにその表われと見える。1つは、IT関連。ICきっぷ、ワンセグ、ウェブ2.0、デジタル一眼レフなどがそうだ。もう1つは、身体。メタボリック対策商品、脳グッズ、アンチエイジング、植物性乳酸菌ラブレetc.。そしてさらにもう1つが、購買空間。ショッピングセンターや新型コンビニに表現される。

要するに、モノ、IT、身体、市場。と、すれば、これまで産業構造の変化に基づいていわれてきた"ソフト化”とも違った時代の相ということになるのではあるまいか・・。ひとことで言い表せない分、いささか興味をそそられる・・。

山崎正和、「資本」の哲学の再考をせまる2006年07月16日 22:27

今朝の読売の「地球を読む」は、山崎正和の「会社は誰のものか」。山崎の身近なところで実際にあった「小さな出版社」の例をモチーフとした「資本と経営の分離」についての問題提起だ。保守派による「会社」考としてなかなか考えさせられる指摘となっている。

「会社はだれのものか」という「問い」に対して、山崎は、まずは現実が次のようになっていると見る。「所有」概念を基礎に「会社を所有しているのは株主だという論法」が定着している、と。「小さな出版社」が、公共性の強い「文化財」を手がける、という想いを抱きつつ、これに対する山崎の考えが面白い。「文明社会で所有権はつねに万能なのかと いう反省が浮かんでくる。百歩譲って所有権は冒し難いとしても、それと所有物の処分権は同じかという疑いが残る」。「かつて世界的名画の所有者が作品を愛するあまり、自分が死んだら亡骸とともに焼いて貰いたいと発言して、指弾を浴びた」。つまり「純法律的にはどうであれ、文化財は半ば公共の所有物であり、個人の処分権は制限されると考えるのが常識」なのではないかと。

そして、「会社」も「公共的使命のもとに、経営者の知恵と感性によって精緻に編まれた組織」であり「一種の文化財」ととらえるべき側面をもつのではないか、というのが山崎 の主張の核心だ。その際、「内に幸福な従業員を抱え、外に満足した消費者を繋ぎとめる企業は、少なくとも一つの生命体ではないか」というのが山崎の議論の前提となっている。ないとはいえないにしても、「幸福な従業員と満足した消費者」というのがきわめてマレであり、むしろ雇用関係にもむき出しの“市場原理”が組み込まれ、消費者の満足・快適さは二の次、三の次にされるというのが現実(直近の事例では、トヨタのリコール隠しやパロマの瞬間湯沸かし器事故)であることを直視すべきだが、したがって現実の解釈としては“甘すぎる”というほかないが、山崎がいうように「ただ株を所有してその値上がりにだけ興味を持つ投資家」の露出度がきわめて目だっている折から、再考されてよい主張であることも確かだ。

保守派論客の「『激論』番組」評2006年07月02日 17:26

読売の朝刊。日曜の第1面に掲載される「地球を読む」。きょうのキャプションは「空虚な『激論』番組」。「戦後平等主義の悪弊」という視点から保守派の論客・岡崎久彦(外交評論家)が書いている。時事ネタを取り上げるテレビの『激論』番組が、専門家もシロートも区別せずにただひたすら「出演者が視聴者の前でプロレスのような立ち回りのショーを演じてくれるだけを望んで」いわば乱造されていることを斬った論評。

専門家も、どシロートも同一視され、発言時間も同じ長さにコントロールされる『激論』番組。番組制作側に「識者から学ぼうとする姿勢が皆無」というのがその前提になっているが、それは「テレビ局の担当者が学校教育」と、せいぜい「新聞で覚えた限られた知識の中で、番組のシナリオを作ろうとしている」ところに由来している。「担当者は徹夜するような努力はしているようであるが、恐るべきカラ廻り」というほかない。彼らのみずから発する唯一の“ことば”は「視聴率の高いシナリオを作ること」。

こんな状況になった「背後には、おそらく戦後日本の悪平等思想があるのであろう。私は戦後の平等思想の背後には、左翼の影響だけでなく戦時中の軍の思想の残滓があると思っている」と指摘する。「軍の思想の残滓」というのは「組織でやるんだよ。お前だけが特別な人間と思うなよ」という「軍隊経験のある人たちの口癖」から裏づけがとれるとする。

「軍の思想の残滓」というのは確かにリアリティ があるし、左翼の影響についてふれているところは、意外なほど感覚的・情緒的・ジョーシキ的な感じがするものの、「学校教育と、せいぜい新聞で覚えた限られた知識の中で」仕事をこなすやるせなさについては確かに同じ感覚を覚える。最近の学生は、本を買わない。読まない。しかし何かの偶然で、専門書を1冊読み通したとすればそれだけで「もう気分はりっぱな専門家」だ。下手すると教師相手に「タメ語」がでてくる。これが現実・・。こうした現象を、社会を編成する枠組みの問題も含めて剔抉する必要がありそうだ。

経営者支配の「逆襲」?―村上ファンド問題2006年06月05日 19:18

村上ファンドの村上世彰が逮捕された。 証券取引法違反(インサイダー取引に該当)という。村上自ら解説している。要するに「ライブドアによる株式取得の意向は、証券取引法167 条、同法施行令31 条に規定するインサイダー情報としての5%以上の株式買い集め行為についての決定であると解釈される」ということだ。

日経のサイト(ブロードバンド・ニュース)に掲載されている村上の記者会見(謝罪会見)では、証券取引に関するプロ中のプロである自分が「罪を犯そうとしたわけではなかったが」、ニッポン放送の株取得に関するライブドアの幹部のいうことを物理的に「聞いてしまった」ことは事実であり、したがって法を犯したのはその通りだと主張している。その際、ライブドアの宮内が「やりましょうよ」とばたっと手をついて「お願いしますよ」と村上に訴えたというくだりは、本人も言うようにすごくビジュアルでリアルだ。

M&Aコンサルティング(通称村上ファンド)は、いわゆる「株主価値の向上」を主張の最大のポイントにおいてこの間ビジネスを展開してきた。それはまるで株式会社の支配権は経営者にあるのではなく、あくまでも「株主=所有者」にこそあるというのが眼目だったことをうかがわせる主張と行動だった。その意味において、村上世彰逮捕は「経営者」による権力奪還と、読み解くと何かが見えてきそうな気がするが、どうだろうか。

東京地検特捜部の真のネライを特定するのは難しいが、例えばホリエモンではなく村上世彰こそが陥落すべき対象だったとするならば、90日以上完全黙秘状態で耐えたホリエモンの姿は、村上にとっては最初から非を認めるのが得策と思わせる決め手であったというべきことを想像させる。とまれ、先週刊行された、山口重克「『企業統治』と所有と経営の分離」(『アソシエ21 ニューズレター』2006年5月号、アソシエ21)が、この問題を考えるという意味で、ちょうどいいタイミングとなった。一読をお薦めする。