音楽がタダ?よろこんでいいのかなぁ ― 2008年07月25日 21:37
毎日新聞社『エコノミスト』(07/29号)が,「音楽がタダに―iPodの成功,CD販売激減」という特集を組んでいる。苦境に立つレコード会社(業界)を切り口として音楽業界の行く末を見定める,というのがその趣旨。
レコード会社(業界)を窮地に追い詰めている要因は何か?1つは「CD不況」。CDが売れない。出荷額は10年前の半分にまで落ち込んでいる。いわゆるネットを介した音楽配信が伸びているが,デジタルコピーなどが広まっている分,落ち込んだマイナスを補うほどじゃない。もう1つは,デジタル技術の発達により,レコーディングが容易になって,プロ並みの制作環境が誰にも開かれたこと。CDパッケージビジネスを独り占めしてきたレコード会社が相対化されてしまったというわけである。
いま音楽を楽しむ人たちは,CDを購入し,これを音響装置にかけて聴くというスタイルはもうとらない。ネットから入手する曲を音楽プレーヤーに取り込んで,これを楽しむのである。一定の音質が保証されるのであれば,誰が制作したものであろうと,誰が提供したものであろうと一向に構わない。
この特集で,注目すべきことが2つあった。1つは,いまの音楽ユーザーは,楽曲をできるだけ簡便に,できるだけ安く入手するのを――できればタダで入手するのを――求めつつも,他方では,高額であってもライブにはきわめて高い関心をもっているということ。これを音楽プロデューサーの八木良太は「録音された音楽コンテンツはネットから安く入手し,その代わりに『いま』『ここ』にしかない一度限りの体験や興奮,一体感といった感動体験をライブに求めているのではないか」(前掲,エコノミスト,37頁)と説く。注目すべきもう1つのこと。例えばユニバーサル・ミュージックが計画中の試みがそれである。パソコン,ケイタイ,携帯音楽プレーヤーなどデジタル端末製品の小売価格に予め音楽税を上乗せし,購入者は「それらの商品が壊れるまでネットから無料で音楽を聴ける」(小林雅一,同上34頁)ようにするというアイデア。音楽がタダになるという意味では,現在の民間放送によるテレビやラジオと同様の仕組みを構想するのもある。ユーザーが,楽曲を手に入れようとするサイトに広告を貼るビジネスモデルである。
もちろん,「音楽税」にしろ「広告を収入源とするフリーミュージック」にしろ,音楽を文化として愉しむ豊かさとはまるで異次元のことでしかない。特集のなかの「インタビュー」で,坂本龍一は「無料で聴いてもらってよい音楽もあれば,・・きちんと対価を払って聴いてほしい・・作品もある」と言っている。まっとうな表現にたいしてまっとうな評価をどう与えるのか,という問題を提起しているわけである。デジタル社会が問いかける問題は,音楽業界の行く末などという問題をはるかに超えて,例えば人間社会における〈時代を超えて訴える作品〉をいかに扱うかということにまで及ぶのである。
レコード会社(業界)を窮地に追い詰めている要因は何か?1つは「CD不況」。CDが売れない。出荷額は10年前の半分にまで落ち込んでいる。いわゆるネットを介した音楽配信が伸びているが,デジタルコピーなどが広まっている分,落ち込んだマイナスを補うほどじゃない。もう1つは,デジタル技術の発達により,レコーディングが容易になって,プロ並みの制作環境が誰にも開かれたこと。CDパッケージビジネスを独り占めしてきたレコード会社が相対化されてしまったというわけである。
いま音楽を楽しむ人たちは,CDを購入し,これを音響装置にかけて聴くというスタイルはもうとらない。ネットから入手する曲を音楽プレーヤーに取り込んで,これを楽しむのである。一定の音質が保証されるのであれば,誰が制作したものであろうと,誰が提供したものであろうと一向に構わない。
この特集で,注目すべきことが2つあった。1つは,いまの音楽ユーザーは,楽曲をできるだけ簡便に,できるだけ安く入手するのを――できればタダで入手するのを――求めつつも,他方では,高額であってもライブにはきわめて高い関心をもっているということ。これを音楽プロデューサーの八木良太は「録音された音楽コンテンツはネットから安く入手し,その代わりに『いま』『ここ』にしかない一度限りの体験や興奮,一体感といった感動体験をライブに求めているのではないか」(前掲,エコノミスト,37頁)と説く。注目すべきもう1つのこと。例えばユニバーサル・ミュージックが計画中の試みがそれである。パソコン,ケイタイ,携帯音楽プレーヤーなどデジタル端末製品の小売価格に予め音楽税を上乗せし,購入者は「それらの商品が壊れるまでネットから無料で音楽を聴ける」(小林雅一,同上34頁)ようにするというアイデア。音楽がタダになるという意味では,現在の民間放送によるテレビやラジオと同様の仕組みを構想するのもある。ユーザーが,楽曲を手に入れようとするサイトに広告を貼るビジネスモデルである。
もちろん,「音楽税」にしろ「広告を収入源とするフリーミュージック」にしろ,音楽を文化として愉しむ豊かさとはまるで異次元のことでしかない。特集のなかの「インタビュー」で,坂本龍一は「無料で聴いてもらってよい音楽もあれば,・・きちんと対価を払って聴いてほしい・・作品もある」と言っている。まっとうな表現にたいしてまっとうな評価をどう与えるのか,という問題を提起しているわけである。デジタル社会が問いかける問題は,音楽業界の行く末などという問題をはるかに超えて,例えば人間社会における〈時代を超えて訴える作品〉をいかに扱うかということにまで及ぶのである。
ジャーナリストの「虚実皮膜」 ― 2008年03月03日 22:31
昨日は仙台文学館にて「小池光ことばのセッションvol.3『メディアのことば・詩歌のことば~高橋郁男氏とかたる』」を拝聴。出演は,歌人小池とジャーナリスト高橋(朝日新聞論説顧問)。言葉と表現をめぐる文学とジャーナリズムとの位相の違いが,おのずと浮き彫りになって面白いセッションだった。高橋の,ジャーナリストとして分をわきまえ,その矜持を保ちながらも,香り立つ文学の世界に果敢に近づこうとするその姿勢が魅力的であった。もとより,実を伝えることにその使命があるジャーナリズムにある人の「文と語り」であってみれば,近松門左衛門のいわゆる「虚実皮膜」というのでもない,近代社会が育んだ表現の世界が示されたのであった。近松の「虚実皮膜」が,「虚」を貫きながら「実」を演出する芸の世界であるのに対し,あくまでも「実」の錘鉛に逆らうことなく,しかしまるで「虚」をもあわせもつかのようなわざを見せてくれたといえばいいだろうか。ひき出し役に徹した小池の技量もさすがだった。
高校時代には文字通り紅顔の美少年であったと記憶する高橋だが,いまはムツゴロウこと畑正憲を髣髴させる相貌となり,ひきかえまるで時の流れから超然としているかに見える小池とのトークセッションは,その表面における差を超えて,今という時空を確実に撃つそれであった。ポスト・モダンを経て生み出されたいまのテレビに見られる,まるでテンポのはやさだけを競う愚劣さから解放されたコラボレーションはまことに心地よかったというべきであろう。われわれが確かにモダンの真っ只中で青春を過ごしたことをあらためて想起させてくれたというおまけもあった。
ちょうど1週間前の朝日の朝刊に,高橋は埴谷雄高について書いた(「時の肖像」)。そこで,埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』の――薔薇,屈辱,自同律――を――生命,挫折,自答――と勝手に読み替えたこともある,と記していた。この読み替え,の真意がどうしても解せなかったので,「いまだったらどう読み替えるか?」と尋ねるつもりでいた。しかし,東京に帰り急ぐ高橋に確かめるチャンスはついに見出せなかった。ザンネン。
高校時代には文字通り紅顔の美少年であったと記憶する高橋だが,いまはムツゴロウこと畑正憲を髣髴させる相貌となり,ひきかえまるで時の流れから超然としているかに見える小池とのトークセッションは,その表面における差を超えて,今という時空を確実に撃つそれであった。ポスト・モダンを経て生み出されたいまのテレビに見られる,まるでテンポのはやさだけを競う愚劣さから解放されたコラボレーションはまことに心地よかったというべきであろう。われわれが確かにモダンの真っ只中で青春を過ごしたことをあらためて想起させてくれたというおまけもあった。
ちょうど1週間前の朝日の朝刊に,高橋は埴谷雄高について書いた(「時の肖像」)。そこで,埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』の――薔薇,屈辱,自同律――を――生命,挫折,自答――と勝手に読み替えたこともある,と記していた。この読み替え,の真意がどうしても解せなかったので,「いまだったらどう読み替えるか?」と尋ねるつもりでいた。しかし,東京に帰り急ぐ高橋に確かめるチャンスはついに見出せなかった。ザンネン。
「あらたにす」オープン ― 2008年01月31日 22:26
あらたにす,がオープンした。朝日,日経,読売の三社がインターネット上に共同開設したWebサイト。「新聞読み比べ」をキャッチフレーズとする,“紙面づくりの差異を読む”ことをウリにした試みである。確かに,一面トップの違い,社説の題材の選択,論説のスタンスの差などが一覧できる作りのようだ。しかし,朝日と読売という,これまでは主張がだいぶ違うと見られてきた二紙が,日経を仲介役とする形で連れ添うことの意味は何か。端的に言えば「新聞の終わりの始まり」ということではないか。
本日のリアルペーパーには,三紙の論説委員の鼎談が載っているが(リアルペーパーでは活字で提供されている鼎談の様子が動画で見られるというのは新しい可能性を感じさせる),例えば読売の論説委員長・朝倉の次のような発言は看過できない。ネット時代の新聞について「社説に限っても,読者の反応が速く,かつ多くなってきました。社説は世論の動向にフラフラついていかない方がいい性格のものではあるけれども,色々な声を参考にという意味では,そういう形でつくっていかなければならない」と言っているのである。と,いうことは,各紙とも「色々な声を参考に」社説を作成するということになれば,結局は差異が解消するということになるということである。最近では,すでに大枠は同じとか,主張の基本も大差ないとか言われているが,ヨリ一層それが強まるということになるのだろう。つまり,この意味で「新聞の終わりの始まり」なのである。ネットという新メディアの脅威に対抗すべき試みが,「だめになるなら皆一緒」の伏線に過ぎない構図とでもいえばいいか。各紙の紙面づくりが“一覧”できるという,全面的に競争原理によって作成される商業新聞。違いの追求の果てに,差異が解消される逆説がまるで目に見えるようである。
本日のリアルペーパーには,三紙の論説委員の鼎談が載っているが(リアルペーパーでは活字で提供されている鼎談の様子が動画で見られるというのは新しい可能性を感じさせる),例えば読売の論説委員長・朝倉の次のような発言は看過できない。ネット時代の新聞について「社説に限っても,読者の反応が速く,かつ多くなってきました。社説は世論の動向にフラフラついていかない方がいい性格のものではあるけれども,色々な声を参考にという意味では,そういう形でつくっていかなければならない」と言っているのである。と,いうことは,各紙とも「色々な声を参考に」社説を作成するということになれば,結局は差異が解消するということになるということである。最近では,すでに大枠は同じとか,主張の基本も大差ないとか言われているが,ヨリ一層それが強まるということになるのだろう。つまり,この意味で「新聞の終わりの始まり」なのである。ネットという新メディアの脅威に対抗すべき試みが,「だめになるなら皆一緒」の伏線に過ぎない構図とでもいえばいいか。各紙の紙面づくりが“一覧”できるという,全面的に競争原理によって作成される商業新聞。違いの追求の果てに,差異が解消される逆説がまるで目に見えるようである。
度が過ぎるテレビ番組の「劣化」 ― 2007年10月16日 22:28
日本の『エコノミスト』(10/23号)のコラム「敢闘言」で,日垣隆が日本のテレビ番組の劣化を烈火のごとく怒っている。これでもか,これでもか,とバラエティと称する劣悪番組が垂れ流される現実。出演者には「売名欲と肥大化した自己愛はあっても,最低限の教養やプライドというものはないのか。教養とは,自分たちを客観的に見抜く批判力のことだ」と。ところが,むしろ日垣の指摘で考えさせられるのは「こういう劣化には,もう歯止めがかからないのか」と自問しつつ,実は「個人的に話せば,制作者も広告主も出演者も,『このままではだめだ』と言うのである」とそれに続く文章だ。当事者,関係者の誰もが,「だめだ」と思っていることが延々と続く。しかも日々エスカレートしつつ間断なく,これを是とする者を多数ひきつけながら続くということこそが深刻なことだからだ。
こうした現実から,わたしたちは,少なくとも二つのことを取り出すことができる。一つは,いまのテレビ界において,何が,それを持続させるのか。いかなる力がそこに働いているのか,という問題である。ただし,これに視聴率だとか,広告効果だとか,スポンサーの売上げだとか,テレビ局の収益だとか種々の“正体”を照応させても無意味である。なぜなら,もう一つの問題,すなわち当事者がおしなべて「ノン」と思っているにもかかわらず,それが一向に収まらない,ないしあらたまらない構造・メカニズムの問題はまったく無傷のまま存続するからである。
多数派とは何か,多数派を形づくるのはなぜ可能となるのか,と問うこと。事は,ここからしかはじまらない。もちろん,多数決のもつ意味と力学などを剔抉することもここから派生する問題だ。TBSは,亀田を前面に押し立てつつ,ボクシング中継の多数派(=ビジネス・モデル)をもくろんだもののあっけなく散った。
日垣は「日本全体が劣化しているわけではない」という。派閥のボス邸に配下の代議士が出向いてお土産に500万円もらって帰る,というのはご法度になったし,昭和40年代と比べたら,公衆トイレだって見違えるようになった,から。「おそらく,我々は疲れすぎているのである。」
例えば,東大駒場キャンパスの公衆トイレにいってごらん。イタトマ(イタリアントマト)の直ぐそば。昭和40年代以上に酷いのがまだ使われているから・・。疲れすぎているのは,はたして誰だろ・・。
こうした現実から,わたしたちは,少なくとも二つのことを取り出すことができる。一つは,いまのテレビ界において,何が,それを持続させるのか。いかなる力がそこに働いているのか,という問題である。ただし,これに視聴率だとか,広告効果だとか,スポンサーの売上げだとか,テレビ局の収益だとか種々の“正体”を照応させても無意味である。なぜなら,もう一つの問題,すなわち当事者がおしなべて「ノン」と思っているにもかかわらず,それが一向に収まらない,ないしあらたまらない構造・メカニズムの問題はまったく無傷のまま存続するからである。
多数派とは何か,多数派を形づくるのはなぜ可能となるのか,と問うこと。事は,ここからしかはじまらない。もちろん,多数決のもつ意味と力学などを剔抉することもここから派生する問題だ。TBSは,亀田を前面に押し立てつつ,ボクシング中継の多数派(=ビジネス・モデル)をもくろんだもののあっけなく散った。
日垣は「日本全体が劣化しているわけではない」という。派閥のボス邸に配下の代議士が出向いてお土産に500万円もらって帰る,というのはご法度になったし,昭和40年代と比べたら,公衆トイレだって見違えるようになった,から。「おそらく,我々は疲れすぎているのである。」
例えば,東大駒場キャンパスの公衆トイレにいってごらん。イタトマ(イタリアントマト)の直ぐそば。昭和40年代以上に酷いのがまだ使われているから・・。疲れすぎているのは,はたして誰だろ・・。
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