NHK会長人事と教育再生会議2007年12月27日 12:55

NHKの次期会長が決まった。福地茂雄,現アサヒビール相談役。会長選びをめぐる経営委員間の対立などがあったが,結局は経営委員会委員長(古森富士フイルムホールディングス社長)が押し切った格好となった。この間,醍醐聰(東大教授)等がまことに当たり前の見解を提起してきたにもかかわらずである。朝日新聞は「NHK新会長―経営委員会の見識を疑う」と社説に書いた。「NHK会長は何よりも高いジャーナリズム精神の持ち主なくてはならない」が,福地はどうなのか,と。会長も財界人,経営委員長も財界人じゃ,いかにもバランスに欠けるのではないか,と。

この決定を受けて官房長官の町村は「今の執行部は国民の期待に応えた実績を上げていなかったのではないか。外部からの人が必要だと判断したのは評価してよいと思う」と言い,さらに「外部の血を入れて思い切ったマネジメント(経営)の改革と政策の展開が大切」と言い切ったという。Ach! 与党の政治家だから,出るべくして出たのだろうが,見逃せないのは「マネジメント(経営)の改革」が出来る人材を「外部」から連れてくるという発想である。NHKの会長について,公共放送に不可欠なものとは何か,ジャーナリズムのあるべき姿とは,と言った視点からアプローチするのではなく,経営を何よりも重視する,そのスタンスが問題といわずしてジャーナリズムが語られるだろうか。委員長の古森は,福地の起用について「大企業を率いた経験を持ち、改革意欲や文化的素養もある」と指摘したという。しかし,朝日の社説ではないが,これでは理由にならない。何か「文化的素養」がキーワードであるかのように言っているが,NHKと「文化」が関係するのは当然であるとしても,あくまでもジャーナリズム体としてのNHKが「文化」に関わるのであって,会長が「文化」に通じているというような問題ではない。しかも,福地の「文化」とのかかわりは,「企業メセナ協議会」理事長とか「趣味が水彩画」といったものであり,これにごく最近就任した「東京芸術劇場館長」の肩書きがつく程度のものでしかない。公(おおやけ)の領域に,民間=市場原理が限りなくしのび込む現実が,こうして自明のものへとなっていく。

そういえば,このNHK会長人事問題と同じような問題をはらむのが教育再生会議の第三次報告である。例えば「国立大学法人は,学長リーダーシップによる徹底したマネジメント改革のため,学長選挙を廃止,学長選考会議による学長の選出などを進める」(同報告書3ページ)とある。組織のトップ→リーダーシップの発揮→マネジメント改革。「学長選挙だと?そんなの関係ねぇ」というわけである。困ったものである。

NHK改革に関する「新聞投書」に触発されて2006年06月11日 14:12

今朝の河北新報の投書欄。「NHKFMの放送継続望む」との声が掲載されている。竹中の私的懇談会がNHKのFM放送などの削減を提言したことへの異論である。懇談会は「民間のFM放送が普及しており、公共放送でやる必要はない」と削減の理由をあげているが、これは受け容れるわけにはいかない、と。なぜならば、自分は「クラシック音楽の愛好者であり、一日の大半をNHKのFM放送で楽しんでいる」が「民間ではまともなクラシック音楽は見当たらない」し「コマーシャルをしょっちゅう流さなければいけない」事情を抱えた民間では、「クラシック音楽のように長時間の音源はもともと無理」なのだから。放送のコンテンツ(クラシック音楽)の性質(曲の演奏が長時間にわたる)が、いわゆる公共放送というメディアを要求するという点に焦点を絞ったまさに正論である。

ここで「公共放送」というのは、情報に関する有料配信モデルの謂いであり、情報配信機関(放送局)が、公的な性格をもつという意味で中立的な立場が前提とされる機関による放送という意味である。したがって「民間による放送が普及している」ことを根拠に、それに一元化してかまわない、という議論はそもそも成り立たないというべきであろう。コマーシャルで中断されるという不快から自由に情報を取得したい、何かに偏った視点、例えば大スポンサーの顔色をうかがう姿勢、で切り取った情報というのは遠慮したい――この点では、政権与党寄りの色合いを否定し難いいまのNHKにも大いに問題はある――者にとって、「民」があるから「官」(公共放送)は不要、ということにはならないのである。

それにしてもコマーシャルによって流れが中断される番組を見続けることのストレスから自由にはなれないものか。あるいは、せめて鑑賞に堪えうる広告(コマーシャル)表現が出てこないものかと思う。