〈侍〉,サムライか,“はべる”か?2009年03月18日 21:06

きょうは,お昼にWBCの試合があった。
日本チームは,1対4で
韓国チームに負けた。
侍はサムライではあるが,
もとの意味は“はべる”である。
相手に“はべる”日本なのである。
明日は敗者復活戦でキューバとあたる。
日本チームは,まるで
韓国とキューバとだけ試合をするのが
WBCだという格好となっている。
負けても
敗者復活をくぐり抜ける手が
あるからのようだが,
よくわからない ('-'*),
ことにしておく。

それはともかく,
今回も各種メディアは,
プチ・ナショナリズムというか
ローカル・パトリオティズムというか,
やすきにつく人情を煽っている。
実況中継を担当するアナウンサーも,
解説者も,
普段とはまったく違って,
日本に対する思い入れを前面に出し
マイクを握っている。

熱闘甲子園を伝えるような格好で
淡々とやれないものかと思う。
高校野球では,
一つのチームに肩入れして
放送しようものなら,
即ブーイングの渦が沸騰するだろう。
高校野球のときには,
チームのどちらかに感情を移入する視聴者もいれば,
どっちでもいい視聴者もいるのが前提である。
だから放送する者はバランスを考える。

いまの日本には,
韓国とのつながりがある人もいれば,
キューバをひいきにしている人も
結構いるだろう。
いま,ロードショーで
ゲバラを上映している
ことだって
キューバ好きを生み出しているかもしれない。
ようするに
日本はいまや万国の自然人が寄り集まる空間となったのである。

「サルサ・キューバ!!」と,
声をはりあげる間があればともかく,
「サムライ・ジャパン!!」と
ただ連呼するのは
やぼと知るべし,である。

ところで,カストロが学生時代に投手として米大リーグ選抜と対戦して無得点に抑えたことがある,というのは知らなかった・・。
ご存じだっただろうか?

日本シリーズ覇者は“オレ流”2007年11月01日 23:02

中日が日本シリーズに勝った。53年ぶりだとか。53年前というのは1954年。わた しは,当時は,主流とか正統とかいわれているものをそのまま素直に受け容れる 小学校に入って間もない子どもだったから,プロ野球といえば巨人の熱狂的なフ ァンだったので,中日優勝のはっきりした記憶はない。ただ,フォークボールの 神様杉下茂とどこを守備位置としていたかは覚えていない西沢道夫の名前だけは 出てくる。それと,かすかに監督が天知茂(かと思ったら天知俊一という人だっ たようだ)というのも。ともあれ,ほぼAクラスには入りながら,優勝には届かないと いうのが中日のイメージである。そんな中日のイメージを,1953年生まれの落合 が砕いたということになるのだろう。

落合といえば,「プロ野球は金を 得るため」とか,結局ジャイアンツに移籍することになった際には「最高の金額 を提示した球団だったから」と実にあっさりと口にするということであまり良く は思われてこなかった。こうした発言の真意は実は・・,というエピソードもあ るようだが,今季中日の育成選手としてスタートし,今回MVPを獲た中村紀洋の 出来過ぎた話なども含めて,しばし面白おかしく語られることになるのだろう。 8回まで完全試合を続けた山井を,9回岩瀬に替えたこともあれこれ憶測を呼ぶに違いない。 とはいえ,まずは祝“オレ流”。

Major Leagueの新聞記事が意味するのは・・2007年09月30日 23:01

例えば,松坂大輔という名の横には、回数8、安打6、失点2。勝15,敗12,S0,防御率4.40という数字が並んでいる。打者であれば、松井秀喜,イチロー,城島健司、田口壮、松井稼頭央、岩村明憲の名がタテに書かれ、それぞれの横に、昨日の打数、安打、打点、本塁打の数値が記入されている。その上で今季通算の打率、打点、本塁打のデータが並ぶ。これが、河北新報におけるMajor Leagueに関する記事のスタイル。

朝日の場合には、[日本選手の成績]とあって、■松井秀(ヤンキース)【2回】遊直【3回】一ゴロ【5回】右安打①【7回】四球【8回】敬遠四球【10回】敬遠四球 =.285などとあり、投手については、■松坂大輔(レッドソックス) 先発【回】8【打者】30【安】6【振】8【球】2【責】2 =15勝12敗,防御率4.40などのようになっている。

先日エントリーした 「新聞没落」という特集 ― 2007年09月25日に、コンテクスト離れのことを書いたが、 Major leagueの紹介記事は、まさにピンポイントであり、試合を形作っているはずの他のプレーヤーの記録は一切取り上げず、試合経過への言及もまったくナシという点においてまさに「コンテクスト無視」の典型ということになる。これではマジ困る。

松坂は、かの野茂の1年目の勝数を上回って今季を終えたらしい。ここしばらく勝ち投手とは無縁状態を続けてきたのに、破格の契約条件に対して最後に辻褄をあわせた・・の?!ホント?

「ジーコ流」、テクストとして読めば2006年06月24日 21:23

本日の朝日新聞。W杯関連記事が多い。試合後ピッチ中央で一人仰向けになったヒデの画像「ヒデが泣いた」(13版 一面左最上段)が印象的だ。W杯を扱う視点は「日本敗退を読み解く」。ヒデの画像のすぐ下に、中小路徹の署名が入った「選手過信したジーコ」がある (Webではこちら)。「組織か個人か」。ジーコは「戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に出すことを求めた」。彼は、グラウンドでは「指示されるのではなく選手自らが状況 判断を下す自主性」をもつことを自明と考えた。しかし、と中小路はいう。「今回のW杯で、世界との個人能力の差が露呈した。結論からいうと、ジーコ監督のやり方は時期尚早だった」のでは、と。

中小路は続ける。かつての日本は「個人能力の劣勢を組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた」。これは「現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない逃げ」の側面ももった。ジーコはこうした状況のなかで、あく までも「戦うのは(個としての)選手なのだ、という強いメッセージを出し続けた」。チームはこれに応えられなかった。組織ではなく、個(個人)の能力ということが前面にでたがゆえに例えば「控え陣」は冷めたまま“試合との負の関わり”をもった。

ジーコが「チームには個人能力だけでなく、プロ意識も足りなかった」とその心境を吐露したと、中小路は明かす。ジーコが「選手を信頼し過ぎてしまった」ことのいわば裏返しの告白として。そして中小路が下す結論。「個人能力重視はだめだと、組織頼みに針を戻すようでは」解決にはならない。「組織と個人能力は対立軸ではなく、両方備えてこそ、強いチームになる」とみるべきだ、と。一見もっともらしい主張だ。しかし、「組織と個人能力」が対立軸ではないことをアピールする言辞が「両方を備えてこそ」というのはあまりにも凡庸、あまりにもステレオタイプというほかない。

組織と個人能力は、組織が有機的に創出・運用され、組織のメンバーである個人はまさに当の組織であるからこそその能力が磨かれ、研ぎ澄まされるという関係においてとらえる必要があるのではないか。ほかではない、その組織であるがゆえに個の発現が生み出される必然があり、まさにこうした個と組織のあいだの相互作用というダイナミズムこそが焦点ととらえるべきだからである。