五輪は「自立した個」の戦い?2008年08月13日 19:39

北京五輪は6日目。テレビは一日中五輪関連の映像を流し続ける。「オリンピック,これでもか攻勢」というわけである。もちろん,テレビだけでなく新聞も紙面の多くを五輪関連に割いている。目についた記事が「北島に見た『個の自立』」(村上龍・河北新報,08/12朝刊),「看看北京 ダルビッシュと日の丸」(西村欣也・朝日,08/12朝刊),「看看北京 なぜ巨像は後塵を拝するか」(加藤千洋・朝日,08/13朝刊)。

村上龍は,「日本選手たちの個としての自立が当然のことになった」として,その代表に100m平泳ぎ2連覇の北島を挙げる。「日の丸を背負って競技に挑む」ものの「同時に,最高レベルのライバルたちと個人として戦うことを楽しんでいるはず」,というのがその理由。ここには,“自由な個人=負荷なき自我”というのが近代が生み出したイデオロギーにほかならないことへの洞察はない。“自由な個人”,“自立した個”を絶対不可侵のものとする観念だけが立ち上がっているのである。北島は,インタヴュワーに「アテネ以上に気持ちいい。チョー気持ちいい」といわされた。しかし,これはホンネでもあったろう。しかも「私」だけの気持ちというより,むしろ例えば中学時代から〈二人三脚〉を続け,連覇を支えた平井コーチを念頭においたものであったはずだ。「個」だけでは競技に向かえないことを知っているというべきであろう。

西村欣也は,五輪大会の「国家主義的なにおい」に嫌気を起こしながら,「一人のアスリートの言葉に救われる思いがした」と書く。ダルビッシュの「日の丸は僕の中では絵でしかない。何も思わないです」「金メダルが欲しいという思いもない。自分のできることをするだけです。笑って終わりたいという気持ちが強い・・」というのが“救われた”言葉にほかならないと。そこで西村は「自戒もこめて,メダルの数だけを数える五輪にはしたくない。選手とチームは国家など背負ってはいない」と強調する。しかし,現実は,スポーツ面にはきわめて詳細な「国別メダル獲得表」が躍っているのである。西村は,紙面づくりについてはたして何かを主張しているのだろうか?

そうであればこそ,加藤千洋が紹介する在中国インド大使館幹部の言葉が印象的にひびく。インドには「選手を商品に,スポーツをビジネスとする米国式資本主義もないし,他方で中国のように優秀選手を武器とし,国威発揚を目指す社会主義的発想もない」。メダルにほとんど縁のないインドの底力が奈辺にあるのかを教えてくれる実に含蓄に富む言葉なのである。

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