ジャーナリストの「虚実皮膜」2008年03月03日 22:31

昨日は仙台文学館にて「小池光ことばのセッションvol.3『メディアのことば・詩歌のことば~高橋郁男氏とかたる』」を拝聴。出演は,歌人小池とジャーナリスト高橋(朝日新聞論説顧問)。言葉と表現をめぐる文学とジャーナリズムとの位相の違いが,おのずと浮き彫りになって面白いセッションだった。高橋の,ジャーナリストとして分をわきまえ,その矜持を保ちながらも,香り立つ文学の世界に果敢に近づこうとするその姿勢が魅力的であった。もとより,実を伝えることにその使命があるジャーナリズムにある人の「文と語り」であってみれば,近松門左衛門のいわゆる「虚実皮膜」というのでもない,近代社会が育んだ表現の世界が示されたのであった。近松の「虚実皮膜」が,「虚」を貫きながら「実」を演出する芸の世界であるのに対し,あくまでも「実」の錘鉛に逆らうことなく,しかしまるで「虚」をもあわせもつかのようなわざを見せてくれたといえばいいだろうか。ひき出し役に徹した小池の技量もさすがだった。

高校時代には文字通り紅顔の美少年であったと記憶する高橋だが,いまはムツゴロウこと畑正憲を髣髴させる相貌となり,ひきかえまるで時の流れから超然としているかに見える小池とのトークセッションは,その表面における差を超えて,今という時空を確実に撃つそれであった。ポスト・モダンを経て生み出されたいまのテレビに見られる,まるでテンポのはやさだけを競う愚劣さから解放されたコラボレーションはまことに心地よかったというべきであろう。われわれが確かにモダンの真っ只中で青春を過ごしたことをあらためて想起させてくれたというおまけもあった。

ちょうど1週間前の朝日の朝刊に,高橋は埴谷雄高について書いた(「時の肖像」)。そこで,埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』の――薔薇,屈辱,自同律――を――生命,挫折,自答――と勝手に読み替えたこともある,と記していた。この読み替え,の真意がどうしても解せなかったので,「いまだったらどう読み替えるか?」と尋ねるつもりでいた。しかし,東京に帰り急ぐ高橋に確かめるチャンスはついに見出せなかった。ザンネン。

「文士の商法」の顛末2008年03月07日 12:33

「武士の商法」ならぬ「文士の商法」の破綻ということなのであろう。いわゆる「石原銀行」,正式には新銀行東京の「融資焦げ付き」が86億円であることが明らかになった。実際にはこの何倍もということなのだろう・・。ともあれ,石原慎太郎のアイデア(選挙公約)により,東京都が1千億円を出資して鳴り物入りでスタートした新銀行が青息吐息状態となっている。経営難に対処するために400億円の追加出資案が都議会に提出されているのは周知の通り。

この事態をどう読めばいいのか。2003年の都知事選に際し,石原は,貸し渋り,貸し剥しの横行する当時の金融情勢を見て,文士として閃いたアイデアを公約として掲げた。つまり,資金繰りに苦しむ中小企業に対して,無担保無保証融資をキャッチコピーとするニュー(?)タイプの銀行を設けた。ところが,「審査の甘さから不良債権が膨らみ,08年3月期決算は累積赤字が約1千億円に達する見込み」(朝日新聞・朝刊・本日13版トップ)となった。アイデアは悪くなかった。というよりも,中小企業の窮状を目の当たりすれば,シロウトなら誰でも考えそうなことを具体化したに過ぎない(実行力があっただけ,さすがか?)。

問題は,新保守主義的ないしナショナリスト的な考えをもつ石原が,市場原理主義にきわめてフレンドリーなスタンスを見せていたにも関わらず,新自由主義を甘く見たという点にある。つまり,市場原理を至上とする考えに実は疎かったということである。それは,新銀行東京の債権には,優良な債権がマレであるという点に如実に現れている。従来の銀行が融資の対象と見なさない企業(中小企業)は,新銀行に頼らざるを得ない。この単純な事実の意味するところにまで想像力が及ばなかった。つまり,新銀行東京から融資を受ける=従来の銀行のビジネス対象外,という関係に対するイマジネーションである。新銀行の融資先=従来の銀行が相手にしない企業=取引先の離反=経営破綻=新銀行における不良債権累積,という図式こそ市場原理貫徹の具体例にほかならないからである。文士の商法たる所以だ。Ach!

ヒトは「百五十名が群れの限界」2008年03月11日 23:50

情報学・メディア学の西垣通が日経新聞に「生命的な情報組織」を連載している(3月7日から)。近代社会において大前提となってきた「個人」(=分割不能の絶対単位であるインディビジュアル)の意味を問うきわめて刺激的な論考である。「個人」が、近代社会における大前提というのは、「人」をそのように処理した方が、「人の群れ」を「個」に還元するという意味で「近代社会(というよりも資本主義経済社会)の持続可能性が強まるからであった。いいかえれば、「個」を前景に押し出すことが近代社会の強靭性を生み出すことを担保していたのである。その意味で「個」はまさにフィクションの強さを示してきた。「個人主義」に連なる様々な思想はその一端をになってきた。

西垣は、「社会とは何だろうか?」と自問し、これに「いわゆる社会的生物とは、個体が集まって群れをつくることで、DNAの生存能力をあげるという戦略をとる生物」と述べる(3月10日付)。つまり、「個」を宣揚することがフィクションであることを指摘しつつ、「経済主体としての個人を絶対視するわれわれの価値観は、どこか不自然」と喝破する。

その上で、本日の連載では、大脳新皮質のサイズと群れのサイズの間に明確な相関関係があることをつきとめた人類学者ロビン・ダンバーの「150名が群れの上限値」という仮説を紹介しながら、「われわれヒトとは、せいぜい百名程度の共同体をつくり、そのなかでコミュニケートしあいながら生きる生物」という考えを打ち出している。ありうべき人間社会のサイズ、というのを想像するとすれば確かにリアリティを感じさせる指摘ではないか、と思う。

もっとも、西垣は、「人口一億以上の近代国家共同体というのは何ものか」とさらに問い、のみならず「インターネットをベースにして地球村ができ、そこでは六十数億の全人類が・・」と、いま人類の到達した途方もないサイズのバーチャル社会を俎上にのせる。明日の続きや如何に・・。

リーディング・プルーフのこと2008年03月15日 14:14

恥ずかしながら、リーディング・プルーフを初めて知った。書評用仮綴じ本のことである。丸谷才一が「書評文化を守るために」(朝日・3/14夕刊)で書いている。尤も、日本ではきわめて例外的にあるだけで、ごく一般的である英米とはだいぶ事情は異なるようだ。丸谷が、リーディング・プルーフを取り上げたのは、日本においては書評文化がずっと不在で、それが定着したのはせいぜいこの30年であることをふり返った文脈の中でである。しかし、かなりまともな書評が見られるようになったとはいえ、よりボリュームのある、より芸に富んだ書評が求められているともいう。もともと、書評者に丹念に本を読み、余裕を持って原稿を書く時間を与えつつ、書評対象本の刊行と同時に書評も出るというのを実現するのがリーディング・プルーフなのだから、それを目指すべきだということなのだろう。

確かに、日本では書評が出るのに手間取り、最近では書評が出る頃には、本が版元に返されているというのも珍しくないから、リーディング・プルーフの習慣が形成されれば、少しは状況が好転するのかも知れない。

とはいえ、この国では、例えば書評新聞1つとっても事情は明るいとはいえない。あまりにもその存在が知られていない。あるいはより正確にいえば、知らない人が多くなった。書評新聞は、今では大型書店といわゆる「町の小さな本やさん」以外には置いてない。めざす品揃えは、雑誌、コミック、文庫本の3点セットという、いまどきの書店ではお目にかかることはない。

しかも、大型書店でも、店員の認知度は驚くほど低い。例えば、こうである。書評新聞を手にしてレジ・カウンターに出向く。店員が怪訝な表情をみせる。「何でフリーペーパーをもってくるのよぉ。さっさと持っていけばぁ」。そこで、定価とあるところを指差す。そこでようやくこれが商品であることを覚る。しかし、どのコード(書籍なのか雑誌なのか、その他)でレジに入力すべきかはもちろん不明である。ベテランの店員に訊いてやっと一件落着となる。

ところが実は現実はより深刻なのである。現物(書評紙)がどこにあるかがわからない場合である。店員に尋ねる。「書評新聞はどこですか?」。「ショヒョォ~シン・・ですか?」「そう。『図書新聞』だとか『読書人』とか」。「ちょっとお待ちください」とやはり年配の店員のもとへ駆け寄る。戻ってくる。「当店では扱っていないそうです」。こんな状態なのである。

最近も、この書評新聞から書評原稿の依頼が入る。これをどう読み解いたらいいのだろう・・。かかる状況でみなさんお断りになるようになったから・・?!Ach !