「もったいない」―ヒデの場合は?2006年07月04日 23:12

きょうの朝日の社説は、「滋賀知事選『もったいない』が勝った」。「もったいない」を、かつての日本における庶民生活の知恵を表現する「ことば」として注目し、地球環境問題を考えるためにも「大事な気遣い」と注目したのが、 ワンガリ・マータイ(ケニアの環境副大臣・ノーベル平和賞受賞者)。

「もったいない」の語源をみると、意味は原義からかなり派生してきたことがわかる。それだけ実はむずかしい言葉なのだろう。

滋賀知事選では、新幹線の新駅や、ダムの新建造に税金を投入することを「もったいない」と主張する候補が当選した。社説は、この当選が「あっと驚いた人も少なくない」と意外性の視点から取り上げている。

「もったいない」とは何か、と考えるとこれが結構むずかしい。“新幹線の新駅と環境にダメージを与えかねないダム”。これは確かに「ムダ」「不要」といえそうだ。だから「もったいない」のだと。しかし、と思う。「不要」と判断する根拠は常に自明か、というと、必ずしもそうではない。「ムダ」が何を基準に「ムダ」なのか。いま わたしたちのまわりでは、この基準は、コスト原理に一元化されるのが“はやり”となっている。しかし、目の前のコストに替えがたい“果実”ということもあるのではないか。しかも、実はムダが“ゆとり”かもしれない、遊びという”快”かもしれない、とみることもできるし、必要なのではあるまいか。ムダなことをする、だから「もったいない」というのが使えるのは、結構限定的と知るべきだ。

ヒデがサッカーの現役をやめる。まだ30前のアクティブな年齢。「もったいない?」