山崎正和、「資本」の哲学の再考をせまる2006年07月16日 22:27

今朝の読売の「地球を読む」は、山崎正和の「会社は誰のものか」。山崎の身近なところで実際にあった「小さな出版社」の例をモチーフとした「資本と経営の分離」についての問題提起だ。保守派による「会社」考としてなかなか考えさせられる指摘となっている。

「会社はだれのものか」という「問い」に対して、山崎は、まずは現実が次のようになっていると見る。「所有」概念を基礎に「会社を所有しているのは株主だという論法」が定着している、と。「小さな出版社」が、公共性の強い「文化財」を手がける、という想いを抱きつつ、これに対する山崎の考えが面白い。「文明社会で所有権はつねに万能なのかと いう反省が浮かんでくる。百歩譲って所有権は冒し難いとしても、それと所有物の処分権は同じかという疑いが残る」。「かつて世界的名画の所有者が作品を愛するあまり、自分が死んだら亡骸とともに焼いて貰いたいと発言して、指弾を浴びた」。つまり「純法律的にはどうであれ、文化財は半ば公共の所有物であり、個人の処分権は制限されると考えるのが常識」なのではないかと。

そして、「会社」も「公共的使命のもとに、経営者の知恵と感性によって精緻に編まれた組織」であり「一種の文化財」ととらえるべき側面をもつのではないか、というのが山崎 の主張の核心だ。その際、「内に幸福な従業員を抱え、外に満足した消費者を繋ぎとめる企業は、少なくとも一つの生命体ではないか」というのが山崎の議論の前提となっている。ないとはいえないにしても、「幸福な従業員と満足した消費者」というのがきわめてマレであり、むしろ雇用関係にもむき出しの“市場原理”が組み込まれ、消費者の満足・快適さは二の次、三の次にされるというのが現実(直近の事例では、トヨタのリコール隠しやパロマの瞬間湯沸かし器事故)であることを直視すべきだが、したがって現実の解釈としては“甘すぎる”というほかないが、山崎がいうように「ただ株を所有してその値上がりにだけ興味を持つ投資家」の露出度がきわめて目だっている折から、再考されてよい主張であることも確かだ。

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