「ジーコ流」、テクストとして読めば2006年06月24日 21:23

本日の朝日新聞。W杯関連記事が多い。試合後ピッチ中央で一人仰向けになったヒデの画像「ヒデが泣いた」(13版 一面左最上段)が印象的だ。W杯を扱う視点は「日本敗退を読み解く」。ヒデの画像のすぐ下に、中小路徹の署名が入った「選手過信したジーコ」がある (Webではこちら)。「組織か個人か」。ジーコは「戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に出すことを求めた」。彼は、グラウンドでは「指示されるのではなく選手自らが状況 判断を下す自主性」をもつことを自明と考えた。しかし、と中小路はいう。「今回のW杯で、世界との個人能力の差が露呈した。結論からいうと、ジーコ監督のやり方は時期尚早だった」のでは、と。

中小路は続ける。かつての日本は「個人能力の劣勢を組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた」。これは「現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない逃げ」の側面ももった。ジーコはこうした状況のなかで、あく までも「戦うのは(個としての)選手なのだ、という強いメッセージを出し続けた」。チームはこれに応えられなかった。組織ではなく、個(個人)の能力ということが前面にでたがゆえに例えば「控え陣」は冷めたまま“試合との負の関わり”をもった。

ジーコが「チームには個人能力だけでなく、プロ意識も足りなかった」とその心境を吐露したと、中小路は明かす。ジーコが「選手を信頼し過ぎてしまった」ことのいわば裏返しの告白として。そして中小路が下す結論。「個人能力重視はだめだと、組織頼みに針を戻すようでは」解決にはならない。「組織と個人能力は対立軸ではなく、両方備えてこそ、強いチームになる」とみるべきだ、と。一見もっともらしい主張だ。しかし、「組織と個人能力」が対立軸ではないことをアピールする言辞が「両方を備えてこそ」というのはあまりにも凡庸、あまりにもステレオタイプというほかない。

組織と個人能力は、組織が有機的に創出・運用され、組織のメンバーである個人はまさに当の組織であるからこそその能力が磨かれ、研ぎ澄まされるという関係においてとらえる必要があるのではないか。ほかではない、その組織であるがゆえに個の発現が生み出される必然があり、まさにこうした個と組織のあいだの相互作用というダイナミズムこそが焦点ととらえるべきだからである。