トイレの女神を唄える“はっぴねす”2011年01月29日 09:29

「トイレには・・きれいな女神様がいるんやで」
という唄がラジオから流れてきた。
「毎日トイレをぴかぴかにしたら,
女神みたいにべっぴんになれるんやで」
という歌詞もある。
昨年,大いに流行った

日常のなかにトイレがあり,
そのトイレにはきれいな女神がすんでいる。
トイレをきれいにみがく者は,
その女神のようにきれいになれる・・。

これがなぜ流行ったのか?
カギは歌い手の実話を唄にしたという点。

歌い手には,
確執のすえ,不和になった祖母がいた。
長い間疎遠だった祖母に,
入院したと聞いて会いに行く。
話をする間もなく,
祖母の口から出たのは,
「もう帰りー」。
翌日,祖母は帰らぬ人となった。
実は私を待ってくれていた祖母・・。
その祖母が教えてくれたのがトイレ神話。

すなわち,実話のもつリアリティが,
聴く者に情味をあたえるのである。

トイレのある日常を与件とし,
トイレをメディアとする祖母と孫の関わり,
これが流行り唄を生み出すトリガーとなった。

おとつい,やっぱりラジオで,
「トイレのない日常」がレポートされていた
(NHK第1「ワールドリポート」)。
いま世界の人口はおよそ69億。
その1/3以上の26億人は,
トイレのない日常を送っている。
インドで,インドネシアで,中国で。

トイレがない日常。
それに起因する病気,不衛生がひろがる日常。
しかも,
トイレのない日常を公に取り上げることが
タブーとされる日常が覆い被さる。

彼の地においては,
トイレはメディアとなるはずもない。
祖母と孫を
とりもつ神話が生まれるべくもない。
これが同時代の世界のもう一つの日常なのである。

そこで想起されるのが,
トイレとよべるものがなかった16世紀のパリ。
ラブレーが,スカトロジー文学をひりだした,
あの時空・・。
厠のない日常にすむ
Bottom Three Billion(最底辺の30億弱),
そこから生まれいづるものは何だろうか?
「女神」の向こうを張るものは,はたして・・。




オバマの失速2010年11月04日 18:17

各紙の朝刊1面の見出しが「オバマ民主大敗」。
アメリカ中間選挙は「予測通り」となった。
朝日には「茶会旋風」という添付見出しもある。
大敗の背景として共通した認識が「経済問題」。
高どまる失業率,一向に兆しの見えない不況,
財政危機等々。
オバマ自身も「経済問題」がネックだったと
小括する。

しかし,むしろ底流となっているのは,
茶会(Tea Party)
に象徴される動きと思想ではないだろうか。
国のあり方について「個人の自由と責任」
が強調されてきたアメリカが再び前面に躍り出た
と読めるからである。
アメリカにおける根っからの保守主義が勢いづいた。

例えば,今回の選挙結果をうけて,

オバマの目玉政策の1つが,今年3月に成立し,
4年後に本格実施となる
「医療保険制度改革法」であった。
「国民皆保険」という
「常識的」「標準的」には
あたりまえの制度が,
いわゆる先進国の中で唯一なかったのがアメリカ。
歴代の大統領が実現できなかったことに
オバマがようやく漕ぎつけたのである。
それも再び“振り出しに戻る”可能性が出てきたかに見える。

アメリカにおいて破産に陥る理由のトップは「病気」
といわれてきた。
国民の6分の1が無保険者ともいわれてきた。
保険制度が不在・不備だったからである。
だから「医療保険制度改革法」は,
一歩前進すると見られてきた。
少なくとも現状を変えるだろうと見られてきた。
しかし,それも危うくなった。
「大きな政府」への反発,アレルギーは
一筋縄ではアピーズできないことが示された。

刑務所はおろか軍隊の民営化を平然と主張する,
その由って来るところを
みくびってはならないことを示唆した。

オバマ大敗,これは「一歩前進,二歩後退」なのか。
オバマの射程も所詮Three OutでChangeというレベル
だったのか・・。

それにしても,
米国民も,この地における民と同様
大きく“揺れ”るものであることよ。





「民間療法にも保険適用」2010年02月15日 21:48

脳科学者の池谷裕二が,
プラセボ効果について書いている(『エコノミスト』“闘論席”)。

男性ホルモンを人間に注射した実験の紹介。
一般に男性ホルモンは挑戦的、攻撃的になることと関係するように
思われているが、実はどうなのかという話である。

端的にいえば、本人に知らせずに,男性ホルモンを注射した場合、
「俗説とは裏腹に」攻撃性はむしろ後退し、
「男性ホルモンを投与する」と伝えた上でニセ薬を注射すると
“攻撃性”が高まる結果が見られたということである。
これを、池谷は「科学的事実だけでなく、社会通念もまた真実を作る」と説く。仮にこれが真だとすれば、このことから、どんなことが推測できるだろうか。

とりあえず、こんなことが言えそうである。
それは、「これで奇跡的に治った私」の類が後を絶たないとか、
あるいは小集団を率いる“教祖”がいつの世にも簇生するには、
それなりの理由がある、ということである。

ある人は「心から信じて、自らの治癒力を引き出す結果」となった(でも、科学次元での普遍性をもたないがゆえになんぴとにも通用するわけではない)。
厳しきことこの上ない“修行”に堪えてこそわがものとなる“超能力”というストーリィの出現・・。

と、みれば、“鳩山、「民間療法への保険適用」の検討を開始”、との見出しあり。これって、つまりは(近代)合理主義を
One of themに寄せちゃうということだよね!



れんぼうは,らんぼう(?)2009年11月25日 18:51

れんぼうは,らんぼう
七色れいんぼう,単色れんぼう
れんぼ,れんぼ,よこれんぼ れんぼう,れんぼうあばれんぼう
暴れん坊は“あば”蓮舫,ってか!
とでも囃したくなるシーンが続く。


行政刷新会議「事業仕分け」の
第2ラウンドが始まった。
昨日から今日にかけ,
テレビでは報道番組だけでなく,
ワイドショーなどでも大きく取り上げた。
Webでも生中継が行われている
昨日の傍聴人は,1,500人を超えた
というから驚く。
第1ラウンド初日の傍聴者は,
数えるほどだったのとはえらい違いである。
昨日の傍聴者に,
横浜から来たという
小学生の男の子がいた。
「なぜ,傍聴に?」との問いに
「れんぼーさんの,つっこみがみたかったから」。
傍聴後のインタビューには
「れんぼーさんの,するどいツッコミが見れて,来て良かったです」。
すごい小学生である。

しかし,小学生の男の子を
「事業仕分け」の傍聴に動員した
“れんぼう”はもっとすごい。

そして,れんぼうの凄さを引き出したということで,
さらにすごい,っていうか,
れんぼうの存在感を高めてしまったのが
「国立女性教育会館」の理事長である。

「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外です」と,
れんぼうに迫ったあの方である


「仕分け」作業における,
れんぼうのぜんぼうを
あますところなく伝え,
出色の出来栄えなのが
小田嶋隆のWeb記事
全文を読むには
多少の手続が要るが,
その手間をかけるだけの価値は十分にある。
抱腹絶倒疑いなし。

ところで,小田嶋は,
れんぼうの対応,しぐさには,
いささか否定的というか
複雑なというか,
そんな視線を注いでいるものの,
「仕分け」そのものには,
必要なこと,やらねばならないこと
というスタンスをとっている。
確かに,政府予算の無駄を省く,
というのだから,
異議を唱えるのは難しい。

しかし,ことはそう単純なことではない
ことも知っておくべきだろう。
予算執行の仕組みそのものに内在するムダ
(とくに縦割りにともなう重複とか,
予算の執行には条件が不可欠だが,
その条件を担保すべき
他の省庁の動きがないとか,
多種多様なムダ)は,
間違いなくある。
これは削除すべきである。

しかし,今回の「仕分け」は,
いささからんぼうではないか
と思わせるやり方が
支配的であるようにも思う。
例えばスパコンの開発予算の凍結
というのに象徴されるように,
判断基準が
「目の前にある現実」にしばられている。
あるいは「ビジネス的基準」といいかえてもよい。
「企業だったら,そんなことはしませんよ」
という物言いになるのである。

政府は,企業ではないから存在する,
国の「原理」と
企業の「原理」は違う,
ということが認識されていないのである。

らんぼう,
というのはこの意味なのである。
単色れんぼう,
というのはこの意味なのである。