三箇日のメディアから2011年01月03日 14:32

元旦のNHK(BS1)、『イチロー ぼくの選んだ道』は、
出色の番組であった。
19時から20時50分まで、ニュースによる中断があったものの、
ノンストップでのイチローと糸井重里・住吉美紀の「特別対談」。
民放であれば、CMで頻繁に中断され、
結局散漫な内容になりがちだが、
それがなかったのが何よりいい。

聞き役の糸井重里の巧みさ。
イチローの話したいと思っていること、
イチローの話してもいいと思っていること、
イチローの話そうとは思っていないこと、
イチローの絶対に話したくないと思っていること、
をまるでぜんぶひきだしてしまう、うまさである。
しかも
狡猾なところは微塵もなく、邪気もなく、
イチローをして語らしめるのである。

たとえば、
昨年のWBCの決勝の一打のこと。
それまで不振を極めていたイチローは、
打席に入るまでは、実は
「敬遠してくれと願っていた」とか

「勝負事は、すべて真昼に行う」
「プロポーズもそうだった」
「徹夜して考え出した、という言い草ほど
だめなものはない。それは情に訴えること
でしかない」とか、
「いちばん利くのは、名前だけをいってくれる声援」
などなど。

で、番組を見るものとして何よりも記憶に残ったのは、
おおよそ次のような科白である。
数字であらわせるものはたいしたことではない。
年間の最多ヒット数とか、これまでの通算安打数とか、
200本安打の連続記録とか、
そんなものは問題ではない。打てること、それを
続けることを可能にしているもの、数字をこえるもの、
大事ななのはこのようなことだ。

あきらかに、
イチローは、機能合理性におさまらない人である。
理に十全につきあう人ではあるが、
野球において合理的であることが、
いわば身体と精神の一体性に
基づいていることを知り尽くしている人である。
単に数字に躍らないというのは、
このような意味においてである。

元旦の朝日新聞に、
「安藤忠雄×三宅一生×蜷川幸雄」の座談会が載っていた。
このなかで、蜷川が、
「次世代と文化」に言及しつつ、
「若い人はネットを使って知識を得るのは速い。でも、
情報を地図のように俯瞰して見ないから、ある幅の中で
しかものが考えられなくなっている」と言っている所がある。

イチローと蜷川は、おなじことを見ているのである・・。
ちなみに朝日の座談会のタイトルは、
「世界にぶつかっていけ」。

なるほどなのである。



「伊達直人」現象2011年01月13日 21:38

伊達直人現象が話題をさらっている。
匿名の善意とか,
匿名の寄付といったタームが躍っている。

クリスマス(12月25日)の日,
前橋市の児童相談所に
伊達直人という名で
ランドセル10個が届いた。
これが発端だった。

それが昨日からきょうにかけて,
「社会現象」として各紙が一斉に,
取り上げるまでになっている。

各紙の「分析」のなかで,
最も印象に残ったのが,
毎日新聞が紹介している
「流行の現象に便乗して現代を
生きている充実感を味わいたい
という心情」(森真一・現代社会論)
という指摘だった。

つまり,
今回の現象を「慈善」,「利他心」などの
発露としてとらえ,
「一過性にするな」とか
「寄付文化の定着を」といった
願望が語られているが,
実は,
そうしたコンテクストにつながるような
現象ではないと見るのが正解なのである。

21世紀になって,
この国でますます際立ってきた
ワンフレーズで言い切る
「小さな物語」に大勢で群がり,
これをしゃぶりだけしゃぶって
あっという間に消尽してしまう,
お馴染みのあの「現象」にほかならない。

これを媒介するのはもちろん「メディア」。
しかも,映像メディア。
すなわちTVと動画サイト。

全国紙(読売,朝日,毎日,日経)
のデータベースにあたってみると,
12月25日の前橋の事例を取り上げているのは
読売だけ。
しかも12月28日のたった1件である。
これを例外として,
記事の形であらわれるのは,
1月6日以降に過ぎない。
この日を境に関連記事が急増している。

ということは,
メディアが「伊達直人現象」を煽り立て,
これに便乗して,
多くの人が「現代を生きている充実感」
を覚えるべく
「現象の輪」に跳び込んでいるとしても,
活字メディアよってでは決してない。

やはり,映像の力である。

でも,刺激がそれだけ強い分,
覚めるスピードもすさまじいと予測できる。

見ててごらん,
概ね立春過ぎたら,
次の話題が飛び出すから,ね。




厳寒の織りなす夢幻的現象2011年01月24日 21:12

東北新幹線では座席シートの背に,
JR東日本が手がけているサービスについて
マーケティングを意識したパンフレット類
が入れてある。
それらを実際に手にするのは稀だが,
JR東日本のPR月刊誌『トランヴェール』だけは
ページをめくるようになった。
伊集院静の随筆を読むのである。

最新号のお題は「寒牡丹」。
寒い時季の美しくも
鮮麗なシーンが描かれている。

「寒牡丹」は,
鎌倉鶴岡八幡宮の境内の庭に見えた
ちいさな藁囲いに咲いていたとして
最後のところに出てくる。
緋色の寒牡丹のイメージが
実に鮮やかに浮かび上がってくる表現である。

が,この随筆の半分以上を占めるのは,
逗子海岸で目にしたという
厳寒期の自然現象のことである。
「早朝,部屋の窓を開けると,海が
ミルク色になっていた。よく見ると
それは霧か,蒸気のようだった」

伊集院は明記していないが,
これはおそらく「けあらし(気嵐)」
のことであろう。

自然が冬季にみせるFantasticな現象。
厳しい寒さが織りなす幻想的世界。
いまではこうした現象が
ウェブ上で,
一応確認できるようになった。
「気嵐」ばかりではなく,
「凍裂」という神秘的な音だったり。

しかし,どうだろう。
文章(だけの)方が,
想像力をひきだし,
独自の夢幻的世界に
連れて行ってくれる
のではないだろうか。


トイレの女神を唄える“はっぴねす”2011年01月29日 09:29

「トイレには・・きれいな女神様がいるんやで」
という唄がラジオから流れてきた。
「毎日トイレをぴかぴかにしたら,
女神みたいにべっぴんになれるんやで」
という歌詞もある。
昨年,大いに流行った

日常のなかにトイレがあり,
そのトイレにはきれいな女神がすんでいる。
トイレをきれいにみがく者は,
その女神のようにきれいになれる・・。

これがなぜ流行ったのか?
カギは歌い手の実話を唄にしたという点。

歌い手には,
確執のすえ,不和になった祖母がいた。
長い間疎遠だった祖母に,
入院したと聞いて会いに行く。
話をする間もなく,
祖母の口から出たのは,
「もう帰りー」。
翌日,祖母は帰らぬ人となった。
実は私を待ってくれていた祖母・・。
その祖母が教えてくれたのがトイレ神話。

すなわち,実話のもつリアリティが,
聴く者に情味をあたえるのである。

トイレのある日常を与件とし,
トイレをメディアとする祖母と孫の関わり,
これが流行り唄を生み出すトリガーとなった。

おとつい,やっぱりラジオで,
「トイレのない日常」がレポートされていた
(NHK第1「ワールドリポート」)。
いま世界の人口はおよそ69億。
その1/3以上の26億人は,
トイレのない日常を送っている。
インドで,インドネシアで,中国で。

トイレがない日常。
それに起因する病気,不衛生がひろがる日常。
しかも,
トイレのない日常を公に取り上げることが
タブーとされる日常が覆い被さる。

彼の地においては,
トイレはメディアとなるはずもない。
祖母と孫を
とりもつ神話が生まれるべくもない。
これが同時代の世界のもう一つの日常なのである。

そこで想起されるのが,
トイレとよべるものがなかった16世紀のパリ。
ラブレーが,スカトロジー文学をひりだした,
あの時空・・。
厠のない日常にすむ
Bottom Three Billion(最底辺の30億弱),
そこから生まれいづるものは何だろうか?
「女神」の向こうを張るものは,はたして・・。