「事前投票」2010年07月06日 16:03

参議院選挙の「事前投票」をしてきた。
いわゆる「期日前投票制度」。
もちろん、いまも「不在者投票制度」もあるのは知っている。
しかし、そんなことはどうでもいい問題である。
問題は「事前投票」して、会場から出ようとしたら
その場に多数いた掛員から、さわやか~に、
「おつかれさまぁ~」と声をかけられたことである。
実に不思議な感じがした。
「投票権を行使しただけ」で「おつかれさまぁ~」。
選挙権をなんだと思っているのか、と
つい、独り言ちた。

でも、10年ほど前に、ゼミの女子学生が、
「選挙権なんていりませ~ん」
「どうせ投票になんか行きませんから」
と言っていたのをまた思い出した。
時々記憶の棚から飛び出してくるのである。
「選挙権、投票権は不要」と明るく言い放つ者がいるから、
「おつかれさまぁ~」がさまになるのだと知る、

それにしてもGoogleの「選挙への本気度」は、
いったいどう解読されるべきか?



「反骨」の「外骨」2010年07月14日 21:30

朝日「ニッポン人・脈・記」の項があらたまり,
きょう(東京版は昨日の夕刊)から,
「毒に愛嬌あり」が始まった。
テーマは宮武外骨。
その存在は知っていたものの,恥ずかしながら,
詳しいことはまったく不明だった。
反骨精神あふれる,まことのジャーナリスト。
いかなる表現にもおさまらない怪人物だったようである。

記事に,赤瀬川原平が,1960年代後半に,初めて
外骨(の刊行した雑誌)を知ったいきさつが紹介
されている。
「どこか人を食ったようで怪しげだが,レイアウト
も丁寧で,編集センスもよかった」雑誌を古書店で
偶然手に取った話である。

興味がつのったのでWikipediaを引いてみた。

そうすると,外骨というのは17歳の時に幼名を
あらためたので正真正銘の本名だった話とか,
外骨が手がけたもので最も成功した『滑稽新聞』の
モットーなどがわかり,すこぶる面白い。

モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず,ユスリ
もやらずハッタリもせず,天下独特の肝癪を経(たていと)とし
色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』
だったとある。

今日ジャーナリストは,絶滅危惧種と化してしまったが,
まだ少数でも残存しているのであれば,ぜひこれを読んで
欲しいと思う。

赤瀬川が喝破する。
「権力批判が理屈ではなく,一番根源的な感覚の
ところで行われている」「すごい人がいたもんだ」。

権力に対する根源的な批判!
いまの権力批判は,もっぱら市場原理の砦から行われる
それでしかない。
わたしたちは「根源的批判」の意味と重さを知らね
ばならないのである。外骨の「反骨」を学ばねばなら
ないのである。



相撲が「スモー」になる日2010年07月19日 18:02

大相撲をめぐる様々な報道が連日続く。
1枚50円の番付表が,ネットオークション
では,2,000円になったという。
削除されるべき琴光喜の名が入っている
という理由だけで値が40倍!になる異常。

最新の『週刊・金曜日』の「投書欄」。
ある投稿者が,昔,横綱大鵬は「田岡一雄親分か
ら贈られた『田岡と書かれた菱形代紋の化粧
回し』を着けていた」とばらしている。
(そういえば,大嶽親方は大鵬の女婿だった・・)
だが,そこに否定的なニュアンスはない。
大相撲は,本来「相撲茶屋」に大金を払い,
いわば儀式が済んだ者だけがやっと観ることができる
贅沢な遊びだった,と続くだけである。
そうした贅を尽くした遊びの
希少価値を担保していたものこそ
ヤクザ屋さんたちであり,だからいまさら・・と
言っているのである。

こうした大相撲観は,先日(7月7日),朝日新聞に
寄せた小沢昭一の言い分と通底している。
小沢昭一はいう。
神事から始まった相撲は江戸の終わりに,
両国の回向院で常打ちが行われるようになった。
明治には,断髪令で一般人は髷を落としたが,
ちょんまげに裸で取っ組み合う相撲はそのまま続いた。
伝統芸能だからこそ残った。
芸能の魅力というのは,
一般の常識社会と離れたところの,遊びとしての魅力
にほかならない。
大相撲という興行の本質を知らない者が,スポーツとか
国技という観点からこれを喋喋する。
こうして大相撲も,問題が起こる度に少しずつ扉が
開いて,一般社会に近づく結果となる。

そして,小沢昭一は「大相撲もクリーンとやらの
仲間入りか。寂しいなぁ。」と言葉を括るのである。


ムダを徹底して取り除き,グレイゾーンを許さず,
ひたすら透明であることを価値の頂におく現在の社会
(その淵源となっているのが「株主価値の最大化」であろう。
株主価値を最大化する最良の武器,それがクリーンであり,
透明性の確保だ,というわけであるから)。

相撲が,スモーとして純粋スポーツとなり,勝つか負けるか
の二項対立の範となる・・。
塩を撒く無意味,にらみあう時間的無駄の
排除が喝采される日・・。
髷が不合理の象徴となり,力士が単なるプレーヤとなる日。

NHKは,実況中継をやめ,
“勝負”そのものだけを流すダイジェスト版をはじめた。
これが,結構受けているらしい  Ach!




アウラ(aura)考2010年07月27日 16:11

10分も歩くと眩暈に襲われるような気がする。暑さのせいである。
昨年は、梅雨明け宣言がでぬ間に秋を迎えた。
今年は違う。とにかく猛暑である。暑い!
ギンギンに冷えた部屋が好ましいと思った時期があった。
いまは自然の風が心地好い。しかし、その風がそよともせず、
熱波だけが部屋を漂う。そこで外に出る。すると眩暈に遭遇するのである。

今朝の河北新報(共同通信配信)に辺見庸が「最後に見た『アウラ』」
なる一文を寄せている。

辺見が、最後にアウラを見たのは、彼が共同通信の記者だった
1980年9月3日。北京空港においてだった。彼は書く。

アウラの主は、当時まだ六十七だったが「歩行もままならいボロボロ
の老人であった」。「なにがあったか片眼が半ゆでの卵白みたいに白
くにごり、耳もほとんど聞こえないようすで、あごをあげ鶏のように
やせた首を左右にふって人の気配をあなぐるのだった。」
「記者たちの最前列にたった私はありったけの大声で問うた。
『伊藤律さんですかあ』。」
「問いに応じるのではなく、みずから
『私が伊藤律です』とはっきり名のり『祖国のかたがたにお会いし
て懐かしくぞんじます』とつづけた。」「『ソコク』の発音に血が
にじんでいる気がした。老人の声はふるえていた。凛とした芯と艶
があった。無残に傷んだからだからは、暈というか磁気というのか、
視えない胆力と品位のようなものが放射されていた。そしてほんの
かすかに性的ななにかが。」

アウラ(aura=オーラ)は、漢字だと「暈」となる!
すごい想像力ではないか。

辺見は、アウラについての箴言をベンヤミンから借りている。
「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的にあらわれる」。

アウラとは「暈」のことだとすれば、「眩暈」は何というのか?
暑さの中で覚える「眩暈」は・・。
えっ?ヘタレ?  (^^;)