98歳、新藤兼人の凄さ2010年09月21日 20:53

一昨日、NHK教育テレビのETV特集を観た。

新藤兼人はいま98歳である。
孫娘の新藤風が生をささえる。

これまで映画48本のメガホンをとってきた。
49本目となる今回の作品を、自ら「遺言状」と呼ぶ。
「遺言状」に選んだテーマは「自身の戦争体験」。

丙種合格だった新藤にも、1944年(昭和19年)3月、
赤紙が届いた。32歳だった。
彼は、呉海兵団に召集された。
その時召集されたのは100人。
みな30歳を超えたいわゆる老年兵であった。
掃除兵として任務に就いた。
つまり、「戦争の現場」ではなく、
いわば「銃後の守り」に就かされたのである。
ある場所での役目が終わると、
次の任務地(国内・国外)に移動させられる。
誰がどこに移動するかは、すべて上官がひくクジで決まる。
移動途中、当然のことながら爆撃の対象となる。
結局、最後に生き残ったのは100名のうちわずかに6名。
新藤は、その一人であった。
新藤が「遺言状」のテーマに「戦争体験」を選んだのも
100名のなかの6人になったからである。
生きていることがそのまま「原罪」だったからである。
老年兵は、そのほとんどが妻子もちだった。
94の家族が家族として持続することを断念させられた。
新藤は、「戦争」が家を、家族を
破壊する凄惨を目の当たりにした。
新藤は、「戦争」が常民の日常生活に潜ませる
怒り、悲哀、くやしさを見透かした。
それを象徴するのが一枚のハガキ。
フィリピンでの任務を命じられた同期兵に,
その妻から届いた一枚のハガキ。

「今日はお祭りですが
あなたがいらっしゃらないので
何の風情もありません」

日常を切り裂く「戦争」の意味を凝縮する文面。
これが60年以上新藤のなかに棲み続け、
「遺言状」としての映画をつくらせた。
「戦闘シーンがまったくない戦争映画」
の凄みが滲む。

新藤の演技指導も見るものを圧倒する。
いかにも新藤らしいリアリズムではあるが、
98歳の頭の中に完璧に出来上がっている演技のイメージを
微に入り細を穿つ形で実に丁寧に出演者に
伝えていく。
伝えられるのは大竹しのぶ、倍賞美津子たち。
みな素直にかつ懸命に、
そのイメージの再生・具体化につとめる。
麿赤児も出演する。
久しぶりに麿を見た。健在だった。

リハーサル風景にしてなお見る者を
「新藤の世界」に引きずり込む迫力。

封切りは丁度1年後。
運ばずにはいられない・・。





震災と絵巻物2010年09月01日 21:53

先月のエントリーはたった3回になってしまった。
なぜだろうかと考えてみたら,やっぱり
夏休みの始まりが8月第2週からとなった
ことが大いに関係してそうだ。
身体に刻み込まれた夏のリズムが乱れてしまった。
休みが短縮したのに,やらねばならない事は
従来通り(いやぁ,それ以上?)なので,
時間が過ぎることの速いこと,速いことと相成った次第。
それに,もちろん猛暑のダメージ。
いつまで続くぞ,この暑さ。

とまれ9月に入った。
きょうは防災の日。
未明,消し忘れたラジオの音で目が覚めた。
偶然,「関東大震災の被災者を追って」というのが
流れていた(NHK「ラジオ深夜便」)。
災害史研究家,北原糸子さんという方の話。
まどろみながら聴いたのだが,
強く印象に残ったことが,いくつか。
例えば,関東大震災の話。
大地震は正午前だったが,上野駅は閉鎖されず,
多くの人達の避難先となっていた。
しかし,夕方になり駅全体が炎に包まれた。
大震災に伴なう火事は,
揺れと同期的に一斉,同時多発
かとイメージしていたが,
そうではなく,いわば五月雨的・連鎖的に
発生するものらしい。
現代でもそうなのだろうか・・。

多くの人は,被災後間をおかず故郷に疎開した。
その際,
罹災証明は,被災者の疎開先の地方政府が発行
したとのこと。これも初めて聞いた。
しかも,罹災証明があると,東京に戻る時の汽車賃は
負担せずに済んだらしい。
震災直後には,戒厳令と徴発令が発令された。
戒厳令は,“暴動”のデマゴギーを背景にしていたのは
もちろん知られているが,
食糧確保のための徴発令については無知だった。

江戸の大地震の話。
例えば安政の大地震(1855年)。
その時に描かれた絵巻物,この話がなんとも興味をひいた。
正確に紹介する自信はないが,こんな話だったと思う。
「絵巻の方が,写真画像よりも震災の状況を的確に伝える」
こんな話。
リアルタイムの絵かき(画家)は,
その時(代)の生活日常の機微,ポイントを
よくつかんでおり,
それらが目につく形で描くので,
後世の人からすればとっても貴重な史料となる,と。
なるほど,なのである。
写真画像だと,
対象のすべてに対して中立的だからである。
時代の固有性は,そのままでは判らない。

鯰絵のはなしも面白かった。
鯰絵は,絵師たちが競い合うようにして,
さまざまな工夫をこらして描いた絵なのだそうだ。
しかも,
鯰→大地震→憎き対象,という単純なことではなく,
鯰→大地震→愛憎半ば,アンビバレンツな対象
という系の話のようだ。
江戸「文化」の奥行きは,
やっぱり相当なもののようである。











表現者と観衆のコラボ2010年06月14日 18:17


朝日新聞の朝刊一面に「文化 変調」の記事。
あの「HMV渋谷」が8月で閉店するとのこと。
背景はネット配信によるCD不況というのは想像通り。
音楽文化の変調は,CD不況(楽曲入手の仕組みの変化)
だけでなく,
思い立った時に誰もがいつでも歌い手になれる環境
が普及したことともある。
無料の動画サイトに,投稿するだけなのだからと・・。
それだけではない。
文化の変調は,小説,エッセー,絵画,写真などにも一様に
現れている。
小説だったら,やはり無料で発表可能なサイトがあり,
そこでは投稿者のなかみに対して誰もが種々の要望
(登場人物への思いとかストーリィそのものへの要望)
が出せるのだという。
表現者と鑑賞者とのダイレクトなやり取りを通して
作品が出来上がるということのようである。

そうだとすると,20年ほど前の,筒井康隆が試みた
実験(的)小説が思い出される。
パソコン通信を使った読者参加型フィクション
『朝のガスパール』である。
もちろんパソコン通信だから,パソコン通信の会員で
なければ小説作成に関わることはできなかった。
プロの書き手がモチーフを提供し,アマチュアである
読み手(鑑賞者/観衆)がある範囲で参加するという点では
いま進行中のものとはだいぶ次元が違う。
でもまぁ,試みとしては画期的だった・・。

ところが,20年前が画期的なんて「ばかじゃないの?」
というのが,昨日のNHK(BShi)「ブックレビュー」で紹介して
いた本。西村亨『源氏物語とその作者たち』(文春新書)が,それ。
『源氏物語』は,紫式部が一人で書いたものではなかった,こと
を検証したそうである。実は,紫式部の他に男性の著者もいたし,
紫式部は鑑賞者の要望・助言を取り入れてストーリィを
柔軟に変えていったことを示しているというのである。
なんのことはない。
千年も前に,読者参加型メタフィクションはあったのである。
千年かけて戻ったのがネット社会ということらしいのである。




吉本隆明をTVで観る2010年03月15日 21:44

昨夜,風呂上りにTVをつけら,吉本隆明が出ていた。
90分番組の,ちょうど3分の1が過ぎたあたりというタイミング。
吉本のテレビ出演というのは聞いたことがない。
初めてだったのではあるまいか。

ぐぐってみたら,昨年の1月4日に放映されたものの再放送と判った。
聴衆二千人に対する講演の録画は,一昨年の7月とも書いてある。
吉本の,60年を越える〈表現活動〉を凝縮して語る,という試みだったらしい。

だからか,話される内容は,すでに知っていることだった。
『言語にとって美とは何か』の,あの話である。
吉本の講演を何回ライブで聴いただろうか。
5,6回・・。同世代では少ない方だ。

今回TVを観てあらためて思った。
「芸術言語論」を語る仕方そのものが,
吉本がいうところの「自己表出」で貫かれている,と。
「論」であれば,社会的・伝達的に説かれるはずであるが
(それこそ「指示表出」的に),そうではなかった。
「論」でなお固有性が満ちている。83歳(録画時)でも変わらない。
この固有性が,吉本の分かりにくさ,晦渋につながるのはいうまでもないが,直ちには了解不能の「評論」こそが魅力の源でもあった(当時は)。

今回の,言葉を1つ,1つ選びながら,ないしは絞りだしながら,
自論を説こうとするその構えは,ついに聴くものを引き付けて離さない。
かつても決して能弁ではなかったが,紡ぎだされる言葉が,
まさに「沈黙に近いところから発せられるかのように」
独自に迫る吉本流は健在だった。
聴衆に対する「語り」というより,
まるで天空に言葉を吐くような姿勢もまた独特である。
それは聴衆と同じ方向を凝視しつつ,
「芸術言語」を共有するという意思の現われでもあった。

それにしても,番組の終わりには驚いた。ホッとした。
カメラが二千の聴衆を映し出した瞬間,
その大部分が若い世代だったからである。
ハルノ宵子,よしもとばななに惹かれて
ということではなさそうであったからである。
吉本が“吉本を全うした”ことに対する若き聴衆による,
スタンディング・オベーションだったからである。
Ach! ・・・Yep!