確かに見直したい〈畳長さ〉2007年09月16日 15:52

〈畳長さ〉を主題とした哲学書が出たとある(河北新報・朝刊)。著者は山内志朗。『善の研究』の解題で西田哲学と椎名林檎が表現において通底していることを喝破した書もあるという。「なんとなくわかる。なるほどな」と思う。椎名林檎の、根源性を凝視し、射抜く姿勢は単なるスタイルというようなものではないだろうから・・。

ところで〈畳長〉である。ムダを意味する「冗」を、重ねるという意味の「畳」に替えて、近代の思考、近代のあり方を問い返した試みと説明されている。〈効率〉と唱えれば何にも優ってしまう近代の現実を相対化するということなのだろう。「然り」と思う視点から大いに期待して読むことにしよう。

ただし、主題はきわめて困難である。「西欧の近代合理主義は一元的な本質主義で、本質は知性や理性でとらえられる明晰で法則性のあるシンプルな構造のものと理解した」。当然のことながら端的に言葉にできないこと、数値化・数式かしがたいことはさしあたり合理的な対象からはずされる。ムダなこととして処理される。これに対し、山内は、非科学的で非効率とみえる〈畳長性〉が、むしろ世界の理解可能性を高め、安定して許容力のある社会の基礎となる、と見るわけである。しかし、このあまりにも当たり前のことが、なんぴとにとっても受容されるべきものとなるには途方もない径庭をこえなければならない。いま私たちの目の前にあるのは、限りないマニュアル化の現実である。まずは言葉に移せることを身につけ、数字に表現できるものを覚える時空である。いま多くの人々は、このわかりやすいコミュニケーションをこそ評価の対象と考えているかのようである。誰にとっても身体化が容易と思われるこのスタイルこそ近代が実現したものにほかならないというべきであろう。だから、ムダ、すなわち〈畳長さ〉を引き受けつつこれを評価し、目の前のことにとらわれることなく、中長期的に安定した社会を対置するのであれば、近代を徹底して相対化する必要がある。旧くて新しい命題に、こうして到達する・・(笑)。