いわゆるぶらさがり記者のふがいなさ・・ ― 2006年08月15日 22:39
きょうは8月15日。朝のラジオが、小泉の靖国参拝を報じた。すでに何日も前から既定事実として知られていたことをあらためて告げた格好だった。
河北新報の朝刊に、佐藤俊樹が小泉の靖国参拝をめぐり「一見熱くて、でもどこか空虚な対立劇」が繰り返されてきた、と書いていた。「どこか空虚な対立劇」というのはうまい表現だ。本質の問題には踏み込まず、それぞれ実は他人事のように形だけの反目を演出してきたのは明らかと思われるからだ。とくに“心の問題”といいながら、他人の心を想像することは皆無の小泉の身勝手が際立ってきた。
参拝後、閣議の前に、いわゆるぶらさがり記者たちを前にして参拝を“説明する”小泉がテレビに映った。説明といっても、もちろん従来の弁明・いいまわしと寸分たがわない内容。ただ、小泉がきょう参拝した理由は3つに整理できるとはじめにことわっていたが、まるで論客であるかのようなそのいいまわしはには嗤えた。
ともあれ、その3点とは。1つ。中国、韓国の反発を招くような行為は慎むべき、との批判があると思うが、それはあたらない。自分は、二度と戦争を起こしてはならないという立場に立っているのであり、外交も未来志向を是としている。2つ。A級戦犯の合祀。自分は特定の人を対象に参拝しているわけではない。3つ。憲法19条、20条に、それぞれ「思想・良心の自由」「信教の自由」が規定されており、それが明確な根拠となる。そして、いつ参拝しても批判の声が上がったのだから、8月15日に参拝しても同じことだろう、とも付け加えた。
憲法とは権力の専断・放縦を戒める枠であることすら知らない権力者、というのは一貫していたということだろう。ともあれ、こうしたいつもと同じ小泉の「トンデモ発言」に対して、まともな質問や反論がぶらさがり記者のなかからまったくなされなかった異常(という日常)もまた繰り返された。
かつて共同通信にいて、いまは同志社大学で教鞭をとる浅野健一が「最近はマスコミで働くものの多くがいいところの―つまり例えば大手企業の重役の―坊ちゃん、お嬢ちゃんで、苦労知らずに育った彼らが入社後何年かの地方勤務を経てなるのがぶらさがり記者」と言っていたのを思い出す。ジャーナリズムとは区別すべき彼らマスコミ人に、第4の権力としての自覚を求めるのはおよそ筋違いなのだろう。
河北新報の朝刊に、佐藤俊樹が小泉の靖国参拝をめぐり「一見熱くて、でもどこか空虚な対立劇」が繰り返されてきた、と書いていた。「どこか空虚な対立劇」というのはうまい表現だ。本質の問題には踏み込まず、それぞれ実は他人事のように形だけの反目を演出してきたのは明らかと思われるからだ。とくに“心の問題”といいながら、他人の心を想像することは皆無の小泉の身勝手が際立ってきた。
参拝後、閣議の前に、いわゆるぶらさがり記者たちを前にして参拝を“説明する”小泉がテレビに映った。説明といっても、もちろん従来の弁明・いいまわしと寸分たがわない内容。ただ、小泉がきょう参拝した理由は3つに整理できるとはじめにことわっていたが、まるで論客であるかのようなそのいいまわしはには嗤えた。
ともあれ、その3点とは。1つ。中国、韓国の反発を招くような行為は慎むべき、との批判があると思うが、それはあたらない。自分は、二度と戦争を起こしてはならないという立場に立っているのであり、外交も未来志向を是としている。2つ。A級戦犯の合祀。自分は特定の人を対象に参拝しているわけではない。3つ。憲法19条、20条に、それぞれ「思想・良心の自由」「信教の自由」が規定されており、それが明確な根拠となる。そして、いつ参拝しても批判の声が上がったのだから、8月15日に参拝しても同じことだろう、とも付け加えた。
憲法とは権力の専断・放縦を戒める枠であることすら知らない権力者、というのは一貫していたということだろう。ともあれ、こうしたいつもと同じ小泉の「トンデモ発言」に対して、まともな質問や反論がぶらさがり記者のなかからまったくなされなかった異常(という日常)もまた繰り返された。
かつて共同通信にいて、いまは同志社大学で教鞭をとる浅野健一が「最近はマスコミで働くものの多くがいいところの―つまり例えば大手企業の重役の―坊ちゃん、お嬢ちゃんで、苦労知らずに育った彼らが入社後何年かの地方勤務を経てなるのがぶらさがり記者」と言っていたのを思い出す。ジャーナリズムとは区別すべき彼らマスコミ人に、第4の権力としての自覚を求めるのはおよそ筋違いなのだろう。
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