「表現の世界」もオレ様化なのか2007年11月23日 16:22

「あぁ,表現の世界もそうなのか・・」とちょっとがっかりした。約30年にわたり,富良野塾を主宰してきた脚本家・倉本聡の談話(朝日,21日,夕刊)を読んでそう思った。倉本はすでに,富良野塾を2010年に閉じることを明らかにしている。来春入る塾生が最後の生徒となるが,閉塾後は,これまで巣立った卒塾生による「プロの創作集団『富良野GROUP』の活動に力を注ぐ予定」(同)とのこと。

ちょっとがっかりしたというのは,最近の入塾希望の子どもたちについて,倉本が「年々応募してくる若者の質が低くなってきた。この世界に入る覚悟も教養もないまま,受け身で教わろうという態度が目立つ」と言っているからである。それで冒頭の「表現の世界もそうなのか・・」となった。倉本の指摘は,これまでは「大学」と呼ばれてきたところにそっくりそのままあてはまる。覚悟と教養の欠如と受け身の姿勢。「覚悟や教養の欠如」については,ねだってみてもあまり意味はない。そんなものだからだ。あるいは昔から見られたともいえるからだ。問題は「受け身で教わろうという態度」にこそある。

つい最近,東大研究グループによる大学生の意識調査結果が報じられた(河北新報,11月19日付)。大学生の4人に3人は,自分で勉強するというのではなく,「必要なことはすべて授業で扱ってほしい」と考えており,「授業と直接関係のないことを,独自に学ぶ」のは完全に少数派というのがその内容――さらに,研究の最先端よりも基礎の知識を知りたい,というのも紹介されていた。2,3年前になるだろうか,『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二・中公新書ラクレ)という本で,消費者として前景化する子どもたちが「オレ様」の正体だというようなことを確か言っていたように記憶している。これをもじって言えば,まさに昨今の大学生は,消費者としてキャンパスに出向き,ひたすらサービス提供を要求する「主体」として現れているということになる。消費者であることはコスト意識を色濃くまとう存在でもある。したがってムダ(=授業と直接関係のないことを,独自に学ぶ)なことは一切しない。

しかし,こうした傾向が,まさか表現の世界にも浸透しているなんてちょっと想像していなかった。甘かった!