筑紫哲也というテクスト2008年11月12日 22:22

昨日,テレビをつけたら「ガンとの闘い500日―筑紫さんが遺したもの」が放映されていた。少しびっくりした。筑紫が亡くなってまだ4日くらいしか経っていないのに2時間枠の番組を流すということに,あまり合点がいかなかったからである。手際がよすぎるのではないかと思ったのである。それでも,仕事の合間,飛び飛びに見て思ったのは,TBSとしては,追悼番組としても最大級の2時間枠の企画を立て,それをいかに構成するのかの検討を行うべきだとする情報をだいぶまえに持ったということであった。少なくとも9月初めにはそうであったらしい。

わたしの印象としては,筑紫というジャーナリストはいいろいろに読めるテクストそのものの人であった。筑紫が,前景に現れたのは,80年代の半ば,『朝日ジャーナル』を担当しはじめてからだったように思う。60年代から70年代にかけて『朝ジャ』は,その主調を若い世代の叛乱に寄り添うような格好で表出した。それは「左手に(朝日)ジャーナル,右手に(少年)マガジン」という,まことにあの時代を象徴するコピー風の言い方にも見てとれる。これに対して,筑紫は,ニューとつくのも含めてレフトの運動を相対化し,ポストモダン的思潮,ニューアカデミズム的な何かへとシフトする流れに舵を切ったように思う。当時,すでに過去のものとなっていた全共闘の運動についてもけっして“Oui”とは言わなかった。『朝日ジャーナル』で,「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」などの企画を次々とたてたことに彼のスタンスがよく示されていた。「若者たちの神々」。「一神教」から「多神教」への転換をイメージしていたのであろう。すべてを相対化し,グランド・セオリーを葬ることも辞せず,軽々と時代の相を描くことにのみ力を注いだかにみえた。この意味で,わたしにとって筑紫は解読を試みたいと思うような存在ではなかった。

亡くなった翌日(8日)の朝日で,日経の編集委員だった田勢康弘が,筑紫を「同僚と群れず,ひょうひょうとしていた。企業メディアの中でのジャーナリストの限界を突き破る闘いをずっとしていたのではないか」と評していた。わたしは,あるパーティで筑紫を間近に見たことが1回だけあるが,その時も筑紫のまわりには誰もおらず,一人にこやかにグラスをかたむけていたのであった。そのシーンを鮮明に思い出す。群れず,連(つる)まず,何よりも自立した個をたのしむかのような印象であった。テレビの追悼番組では,立花隆が,筑紫を「リベラルな人だった」というようなことを言っていた。立花は,おそらく社会自由主義(Social liberalism)的な意味合いで評したのであろう。しかし,群れず,連まず,自立した個という印象からは,なにものをも前提しない,独立した自由な意思主体としての個人といったいわばネオ・リベ的観念をわたしなんかは,ついイメージしてしまう。まことに読み解かれるべきテクストそのもののジャーナリストであったということである。そしてむしろこれからが,大きく時代が転換しつつあるこれからが,筑紫哲也というジャーナリストを読み解く醍醐味を教えてくれるはずではなかったかと思う・・。合掌。