「過剰」という概念と“少子化問題”2006年02月10日 13:26

試しにこのブログを始めた昨年の6月4日、『「過剰」という概念』を取り上げた。もとはといえば馬場宏二の「過剰富裕化」概念が念頭にあったからである。そこからヒントを得つつ、やはり馬場の議論を取り上げた田中史郎の「過剰」概念に行き着いた。そのポイントは、馬場の「過剰富裕化」の「過剰」というのが、いわば社会の自己否定につながるような意味を持つという点にあった。いわば臨界点を超えてなお追求される富裕化が豊かさの累積を意味するのではなく、逆に壮大なゼロへの序曲にほかならないという理解だ。豊かさの限りない膨張が一転むしろ全体の否定にいたる、というロジック。その意味で、非常に興味深い主張に出会った。毎日新聞(2月4日)の「どうする少子化」の古田隆彦。古田は「人口容量(キャリング・キャパシティ)」というキーワードを据える。少子化のウラには「人口容量」の飽和化があるという主張だ。「容量が一杯になると、原生動物から哺乳類まで、ほとんどの動物は生殖抑制、子殺し、共食いなどで個体数抑制行動を示し、容量に確かな余裕が出るまで続ける」という。「現代日本は・・“加工貿易”文明によって1億2800万人の人口容量を作り出してきたが、これが今、頭打ちになった。そこで、多くの日本人は無意識のうちに人口抑制行動を開始し、過去の減少期と同様、出生数を減らし始めている。」その際「飽和した人口容量の下で自らの生活水準を維持しよう」という「隠れた動機が働いている」ことが最大のミソだ。しかるにこの間の政府が取り入れた少子化対策(エンゼルプラン)は、「生活水準を上げてしまう」ことにしか機能していないと喝破する。生活水準を上昇させれば、許容量は逆に縮小する、したがってますます出生数を減らし死亡数を増やしながら結局人口減になるというわけである。「ミクロの増加がマクロの減少を招く」、いわゆる“合成の誤謬”の例としても読めるが、ともあれ「過剰」概念の検討においても大いに参考になる説だと思う。