『精神の風通しのために』(日高普)を再読しつつ・・2006年10月17日 11:02

ある経済学者によると、経済学は「小説仕立て」にはじまり、19世紀の後半から「数学仕立て」のものが現われ現在にいたるという。そのあと、自分は二つの作法を統合する云々と続くのだが、それはさておく。経済学原論を、端緒(Anfang)として何を措くのかなど「学としての方法」を徹底して弁えつつ、一貫した論理体系として展開するのがマルクスに出自をもつ経済学だ。弁証法とも表裏をなすその叙述はなるほど「小説仕立て」という趣をもっている。

昨日、日高普先生が逝去されたと知らせを受けた。マルクス経済学を、宇野弘蔵の理論に基づきながら、わかりやすい論理と平明な文章によって伝える達人だった。彼の『経済学』(岩波全書)や『経済原論』(有斐閣)をひもといて、“目からウロコ”を味わった経験を持つものも少なくないと思う。さりながら日高原論を「小説仕立て」とみなすとすれば本人はこれを即座に峻拒するというのも確かだったと思われる。あくまでも経済学については、日高スタイルをめざすところに重きを置いていたからだ。

『世代』――戦後間もなく東大、一高の学生によって発刊された総合文化誌。いいだもも、小川徹、清岡卓行、工藤幸雄、中村稔、矢牧一宏、吉行淳之介などが支えた――の同人でもあったが、彼の表現に関する真骨頂は「浜田新一」名で書き綴った映画評論にあった。ジュリアン・デュヴィヴィエを語るそのセンスには大いに魅せられたのを思い出す。いま頃はあらためて「旅路の果て」の評論にとりかかっているのかもしれない・・。酒はまったく受けつけなかったが、宴の席にはうまく融け込む術をもっていた。数年前、「もう経済学の本には関心がなくなった。社会を変える、ということにも興味は覚えなくなった。もし、経済学関係の本を出しても、自分のところには献本してもムダだから・・」と言われていたのが鮮明に耳に残る。さびしくなった。