「すべり台」社会という喩は有効か?2008年06月11日 09:27

いわゆる「スモール・ワールド現象」というのがある。人は,自分の知人を媒介に6人までたどると,間接的ながら世界中の人々と知りあうことになる、という仮説である。今回の,秋葉原で凄惨な事件を起こした青年に,2人を介したらあっさりとたどり着いた。

テレビが伝えた,ケイタイ掲示板への彼の書き込みに「死ぬまで一人,死んでも一人」とあった。孤立,弧絶のなかで,精神を暗闇に向けて開き,人として越えてはならない一線を跳び越えてしまった。秋葉原という,現在の日本の「病理」社会を象徴する空間を選んだ「必然」もあったというべきなのだろう。報道によれば,現場では,野次馬がケイタイのカメラを頭上に乗せ,「萌え」メイドたちは,客寄せに声をあげ続けたとある。想像力の欠如。

被害者と加害者との間の一見途方もない隔たりに吃驚する。しかし,彼のこれまでの生きた「経路」を辿れば,ほんのちょっとしたことで,あるいは彼自身が「秋葉原」で被害者になっていたのかもしれない分岐点があったとも想像される。日本のマスメディアは,今回もまるで迷路を逆にたどって簡単に入り口に到達するような「簡便」な解説を流している。あるいは同じような状況の中で皆は一生懸命耐えて生きている,ということをただ強調する。私たちは,被害者にも加害者にもなりうる可能性をもつということには目もくれずに,・・である。

そんな中,労働者問題,格差問題を棚上げにしてきたことの「つけ」ではないかと言う,青森出身のルポライター鎌田慧がいる(河北新報,10日朝刊)。鎌田は,かつて連続射殺事件を起こした永山則夫元死刑囚(1997年刑執行)について社会の根幹を見据える意味を探りつつ発言をしてきた。その彼が,今回の事件を知って,永山のことを想起したと書く。永山は極貧の環境で育ち,中卒で集団就職して上京した。今回の容疑者は,育った環境や受けた教育は異なるものの,派遣労働に身をおき,社会の底辺にいるほかなかった,という点で共通するとみる。しかも,「永山事件の時代には,・・(まだ)若者は上京して生活を向上させるという夢があった」が,今は「時代はもっと悪化し,夢も希望も若者に見いださせない下層化が深刻な問題」ととらえる。かつては,寮費,光熱費は無料だったが,いまではそうではなく,「派遣労働者へのケア」は酷い状態で「工場の同僚と酒を飲む憂さ晴らしさえできない」。

鎌田の指摘はその通りだろう。しかし,それでも問題の一端を撃っているに過ぎないのではないか。労働者問題,格差問題として現れていることの問題の本質を社会の総体においてとらえることが重要だ。ある人は,現在の社会を「すべり台」社会と喩える。しかし,実態は,自らの意志で何度でもスタート台に上れる「すべり台」ではなく,自分の意志では操ることができない「あり地獄」そのものなのではあるまいか。

「死ぬまで一人,死んでも一人」は,現在を象徴する。酷い。群れてもいいじゃないか。つるんで悪いか。「連帯」なんてだいぶ高等なレベルの話だ。「個」への分断化,細分化の現実をまずは直視したい。