「30分授業を導入した」県立高等学校のこと2008年07月04日 22:16

大学の1コマの授業時間。確か学生時代は100分だったと記憶するが,それが90分となったのは1970年代のことだったか・・。もともとは1コマの規準が120分で,最初と最後の15分については教員の任意というのがAkademisches Viertelである。定刻の15分遅れがアリならば,15分早く切り上げてもOKという暗黙のルールである。だから90分という現行の時間は,Akademisches Viertelという「遊び」を最初から奪っておくということを意味する。しかも,教員によってはさらに15分ルールを自明のものと考えるのも珍しいわけではない。皆,できる限り,短時間で切り上げることを目指している,というわけである。話し手と聴き手。教員と学生。それぞれの利害が,あたかも一致しているかのように了解しあうという構図なのである。

しかも,最近では,15分毎に気分転換をはさむことが当たり前になっている。なぜ15分毎なのかについては諸説が飛び交う。1つは,15分毎に比較的長い(3分ほど)CMが挿入されるテレビ日常のリズム説。1つは,人間の集中できる時間の幅は所詮15分という先天説。確かに,最近の学生は,15分前後で流れを変えないと,きわめてシンドそうなそぶりを見せはじめる。

前の勤務先では,教室に向かったと思ったら,正確に15分でいつも授業を切り上げて戻ってくる非常勤教師がいた。「学生が集中できる時間は15分」というのが主張のみなもと。名の知れたインド学者であり,澁澤龍彦とも親しく,幻想文学に通じた人でもあった。繊細かつ豪放磊落な魅力を湛えていた。しかし,学生の「少し遅刻して教室に行くと,すでに授業が終わっている。なんとかならないか」の合唱の勢いが優り,何回かの説得を試みるも信念はかたく,結局非常勤は「雇い止め」となったのであった。

今朝の朝日に,埼玉の県立高校の「30分授業 導入」が取り上げられている。これまでの50分授業では集中することが難しいので,英・数・国語の基本3教科は30分授業とし,毎日やることで効果をあげようという試みだそうだ。そう遠くない将来,大学も30分授業が基本単位となるのかもしれない。CMタイムを1回だけ挟めばOK,の授業がカウントダウンに入った(?)・・。

工藤さんが逝去された2008年07月07日 22:24

どんな写真よりも工藤さんらしい・・
工藤さんが亡くなった。ポーランド文学者の工藤幸雄。前の勤務先で同僚だった。年齢的にはほとんど親子といってよかったが,工藤さんとは妙に馬が合った。1980年代半ば以降に上梓された作品はほとんど恵投いただいた。昨年の12月に届いた詩集『十一月―ぼくの生きた時代』が最後となった。「ぼくの葬式」などというのも入っていた。洒脱な人だった。

わたしの記憶に間違いがなければ,寺山修司が亡くなったとラジオが伝えた時,わたしはクルマを運転していたが,助手席には工藤さんがいた。寺山と親交のあった工藤さんは,一瞬ことばをのみこんだ。みごとな夕焼けが,国道16号線の向こうの空を染めていた。工藤さんは,ただ,こんなきれいな夕焼けを見たのは何年ぶりだろうか,とつぶやいた。

工藤さんは,寺山の葬儀に際して,

「寺山修司葬儀場」の墨書を見つつ参りし人かず二千とやきく

身を捨つるほどの藝術ありと見つけしか四十七にて寺山の逝く

「はい,そこまで」――寺山修司が手を拍ちて葬儀の中止さけぶを待ちしが

など,5首を即興として残している(『ぼくとポーランドについて,など』所収)。

工藤さんは,人を人として扱わないものに対してはいつも憤然と立ち向かった。わたしの言葉を使えば「市場経済の理不尽」を睨視していたし,「“社会主義”の暴圧」に対して容赦なく罵言を見舞った,ということになる。人を人として遇さないことを許さないのは日常の何気ない場面でも純粋にそうであった。だから年に2度は怒りを爆発させる人でもあった。3回ではないし,1回でもない。きまって2回というのが工藤さんの人柄をあらわしていた。

90年代に入り,工藤さんが定年を迎えるまでの5,6年間,毎週木曜日の夕方には夜間の授業のある別のキャンパスにクルマで移動した。わたしがハンドルをにぎり,工藤さんが助手席にすわる1時間ほどのドライブ。多摩川沿いの道に偽アカシアが咲いていたのは,初夏から梅雨時だったと記憶する。子ども時代を過ごした(真の)アカシアがたたずむ大連の美しさ。ポーランドの様々な話。アンジェイ・ワイダの魅力。レフ・ワレサと自主管理労組「連帯」のこと。戦後間もなく東大,一高の学生によって発刊された総合文化誌的同人誌『世代』のこと。たくさん,たくさん聴いた。そして「言葉」についても。〈言語〉というよりも表現にいのちを与える「言葉」の話だった。実に多くのことを教えていただいた。

ただ少なくともひとつだけ,私が「教えたこと」があった。わたしが工藤さんのパソコンの「師匠」だったからだ。定年間際にPCを覚えた。もちろん昔からタイプライターは手馴れたものだったからタイピングはまったく問題なし。むしろローマ字入力のナンセンスをいつも詰っていた。しかし工藤さんは,Macの“遊び心”に惚れていたから上達は早かった。仕事はすべてデジタル原稿となったし,メールも自在にやり取りするようになった。そしてついにブログにまで進出した。最期になってしまったブログにはこう書かれている。

小生、永年に及ぶ喫煙の悪習の結果、肺気腫その他の診断を受け、明後12日に入院します。しばらくというか、当分の間か、ブログは休みとなります。 ごあいさつまで。

入院中の用意に、初めてケータイを買いました。末尾の数字<4771>に気をよくしています。
では、みなさま、ごきげんよう
工藤 幸雄拝

工藤さんと煙草のつながりは優に70年はあったのではないか。10代の初めからではなかったかとさえ思う。キーボードには半透明のカヴァをつけていたが,いつも煙草の灰で覆われていたのがありありと思い出される。ポーランドのウォッカの味に似ているといって工藤さんがこよなく愛した大分の麦焼酎。アトリエと名のついた自宅には何本残されたのだろう。さみしくなった・・。

「正直者」でいいじゃないか・・2008年07月11日 23:45

大分県の教員採(任)用をめぐる贈収賄「事件」。構図と手法はいたってシンプルである。この3日間、各紙のコラムや社説はこれをネタにあれこれ論じている。「事件」の構造と手法がシンプルであるがゆえに、そのマクラの設定に多少の工夫が必要だったようである。

毎日(7/9)の〈余禄〉は「貢挙(くこ)」。奈良時代、平安時代に科挙をモデルに行われた任官試験だったが、有名無実化し、結局この国で公の試験制度が復活するのが明治期以降で、それが今回の「事件」で・・、という主張。

日経(7/10)の〈春秋〉は「ギルド」。階層的にして閉鎖的なミニ宇宙〈ギルド〉が現代ニッポンの教育界にも息づいている、という見方。

産経(7/11)の〈産経抄〉は「秘密結社」。正史には顕われないが、歴史の変わり目に暗躍する「秘密結社」の役割が、大分県教育界の「闇」の機能とダブって見えるという理解。

朝日(7/11)の〈天声人語〉は「科挙」から疎外された唐の詩人・李賀。ねたまれるほどに才を発揮したがゆえに官吏登用の道を閉ざされた李賀。本来であれば合格となっていたはずの今回の不合格者と重なるのではないか、と。

読売(7/11)の〈編集手帳〉。実は、戦時中の戯れ歌から説き起こしたこのコラムが最も問題の本質を突いているように思う。その戯れ歌というのは〈世のなかは、星に錨に闇に顔 ばか者のみが行列に立つ〉。「星は陸軍、錨は海軍、闇は闇取引の闇、顔は『顔が利く』の顔である」と解説し、その上で「軍部の威光には縁がなく、闇で買う金もなく、頼るコネもない。ごらん、ないない尽くしのばか者どもが配給の行列に並んでいるよ、と。」と書く。威圧とカネとコネ。まさに人間社会の成り立ちを簡潔に言い当てている。これを可能な限り洗練しようと努力してきたのがモダンということだったのではないか。大分はその点、プレモダンの段階にとどまっていたのか、はたまた疾うにポストモダンのずっと先に到達したのか・・。

〈編集手帳〉子はいう。「ばか者とはつまり、『正直者』のことらしい」と。そういえば、本日ソフトバンクの前で行列に立ったのも「ばか者」なのであろうか。並ばなくともゲットできるぜ、とうそぶく者がいる・・。

工藤さんとの別れ・・2008年07月15日 19:21

工藤さんの通夜,告別式は,無宗派・友人葬として行われた。故人の遺志であると同時に遺族の意思でもあった。僧の導きなどのような宗教色は一切なく,通夜と告別の儀式は静かに進行した。フルート演奏で始まった最初の曲は,「いちご白書をもう一度」。お仕舞いの曲が「時の流れに身をまかせ」と「襟裳岬」。日頃口ずさんでいたとのことだが,いかにも工藤さんらしい(いちご白書・・はYumingの作詞・作曲。とはいえ,直接教える機会はなかったはず)。とまれ,私も一,二度聴いたような気がするが,はっきりした記憶はない。(告別式の時は,カントリーモードで始まり,ポーランド民謡の森へゆきましょう,と最後は,千の風になって。たぶん,知り合いだった新井満が訳詩・作曲を手がけたから・・)。

式は,アンジェイ・ワイダやポーランドの現大統領レフ・カチンスキ,駐日ポーランド大使,さらにポーランドペンクラブ会長,クラクフ大学日本語学科の教え子などの別れの言葉とともに進んだ。これが文化の違いだろうと感じたのは,いずれもいわゆる定型的な文ではなく,真に自己表出の次元で書かれた文章だったこと。しかもぞれぞれが,工藤さんとの関係を基点とする心のありようを綴った長い長い文章であったことであった。唯一,文字通りひと言だったのがレフ・ワレサの弔電。しかし,あれはむしろ短文でこそ表せると思うワレサの胸のうちを示していたと解すべきなのだろう。

ずっと記憶に残ることになるだろうと確信させる弔辞のなかに二人の日本人のそれがあった。一人は,ロシア・ポーランド文学者の沼野充義。工藤先生は未知のポーランド文学を,妖しくもゆたかな世界へと誘う輝かしい導きの星であった。・・シュルツ,ゴンブローヴィッチ,ミッキェヴィチなど異端・異色のポーランド文学をいつの間にか日本文学の宝庫そのものをゆたかにするものへと変えてしまった・・。79歳にして初の詩集『不良少年』を刊行し,・・好きなことしかやらないで,徹底的にわがままを通した。死でさへも,この永遠の不良少年工藤幸雄の輝きを消すことはできない・・。
もう一人は,共同通信社の方。工藤さんが,共同通信社に入社したのはレッドパージの嵐が吹き荒れた直後だった。その当時,レッドパージで追い出された者よりも過激なのが外信部に採用されたと瞬く間に噂がひろがったという伝説がある・・。その人こそ工藤さんであったが,それは右か左かの思想の問題ではなく,自由を貫いて生きるかどうかを体現するものであった・・。異端に対する優しいまなざしと,反骨精神は終いまで一貫していた・・。

昼に飲むビールは,一瞬にして酔いへと導いてくれた。