吉本隆明をTVで観る2010年03月15日 21:44

昨夜,風呂上りにTVをつけら,吉本隆明が出ていた。
90分番組の,ちょうど3分の1が過ぎたあたりというタイミング。
吉本のテレビ出演というのは聞いたことがない。
初めてだったのではあるまいか。

ぐぐってみたら,昨年の1月4日に放映されたものの再放送と判った。
聴衆二千人に対する講演の録画は,一昨年の7月とも書いてある。
吉本の,60年を越える〈表現活動〉を凝縮して語る,という試みだったらしい。

だからか,話される内容は,すでに知っていることだった。
『言語にとって美とは何か』の,あの話である。
吉本の講演を何回ライブで聴いただろうか。
5,6回・・。同世代では少ない方だ。

今回TVを観てあらためて思った。
「芸術言語論」を語る仕方そのものが,
吉本がいうところの「自己表出」で貫かれている,と。
「論」であれば,社会的・伝達的に説かれるはずであるが
(それこそ「指示表出」的に),そうではなかった。
「論」でなお固有性が満ちている。83歳(録画時)でも変わらない。
この固有性が,吉本の分かりにくさ,晦渋につながるのはいうまでもないが,直ちには了解不能の「評論」こそが魅力の源でもあった(当時は)。

今回の,言葉を1つ,1つ選びながら,ないしは絞りだしながら,
自論を説こうとするその構えは,ついに聴くものを引き付けて離さない。
かつても決して能弁ではなかったが,紡ぎだされる言葉が,
まさに「沈黙に近いところから発せられるかのように」
独自に迫る吉本流は健在だった。
聴衆に対する「語り」というより,
まるで天空に言葉を吐くような姿勢もまた独特である。
それは聴衆と同じ方向を凝視しつつ,
「芸術言語」を共有するという意思の現われでもあった。

それにしても,番組の終わりには驚いた。ホッとした。
カメラが二千の聴衆を映し出した瞬間,
その大部分が若い世代だったからである。
ハルノ宵子,よしもとばななに惹かれて
ということではなさそうであったからである。
吉本が“吉本を全うした”ことに対する若き聴衆による,
スタンディング・オベーションだったからである。
Ach! ・・・Yep!