雑誌というメディアの可能性2007年03月08日 21:22

昨日の東京新聞の夕刊の小さなコラム(大波小波)が面白い。 タイトルは「ある編集者の死」。「優れた編集者とは、単に売れる本を 作る者のことではない」と始まるこのコラムが注目した編集者とは1970年代に『現代思想』と『エピステーメー』を創刊した中野幹隆である。いわゆる 「現代思想ブーム」の仕掛け人として知られた。次のエピソード が、中野とデリダの人となりを示す。「篠山紀信の撮った大竹しのぶ のヌード写真集の帯文をデリダに三行依頼したところ、原稿料の高さから 勘違いされて、四十枚の論文が送られてきたという」のがそれ。あのデリダ をして誤解させしめるほどの「仕掛け」を創造するセンスとエネルギーが すごい・・。

コラム子は「雑誌の時代は終わったなどという怠惰な 寝言はやめて、われわれはいかに多くを彼(中野)に負っているかを、感謝 をこめて思い出すべきである」と結ぶ。しかし読者離れがとまらない雑誌の 現状打破ははたして可能か。雑誌が提供するほどのことはほぼWebで 入手可能になっている現実を前に中野だったらはたして秘策を思いつくのだろうか?

きょうの朝刊各紙には、J.ボードリヤールが77歳で没、とある。