天童荒太のアンチロマン2009年01月24日 22:06

今朝,時計代わりにラジオをつけたら,先ごろ直木賞を受賞した天童荒太という作家が偶然しゃべっていた。受賞作の『悼む人』についてである。「相手が誰であろうとわけへだてなく悼むということについて,人々に届けたかった」というのがそのモチベーション。事件や事故で犠牲になった見ず知らずの死者を現場に尋ねてただ悼む,遺族や近しい人に,死者が誰を愛し,誰に愛され,誰に感謝されたかを訊ねて心にとどめる“変な主人公”をなぜ思いついたのかということについてである。そのきっかけは9.11だったというから,またあれかと思ったが,そうではなかった。9.11をうけて10月7日に始まったアメリカによるアフガニスタン空爆であった。斃れる人がたちまち累積する負の連鎖を少しでも断つには,と想像したというようなことだった。「わけへだてなくただひたすら悼む人」。これは,現代の特殊な状況が生み出したアンチロマン(反小説)なのかもしれない。

それで思い出した。最近書店に行くと,舟越桂の彫刻を装幀に使った本が平積みされているが,あれが『悼む人』だったのだ,と。とはいえ,1980年代の終わり頃から芥川賞・直木賞の受賞作は, 1,2年の間をおいてから,というのが習慣になっているので,手に取るとしてもだいぶ先のことになる・・。

「定額給付金」つき第2次補正予算・・2009年01月27日 21:21

12月の初旬「現職高校教員研修セミナー」なるものに駆り出された。〈公民〉を担当している高校教員の「研修」として意義のあることを何か話せ,と大分前にいわれていたのである。雲をつかむような企画だと思ったが,その日が近づけば,その場になれば,何か思いつくだろうと高をくくっていた。そして師走を迎えた。アイデアは一向に浮かばない。その日がいよいよ迫り,困ってしまったが,「高校教員―公民担当」ということであれば恐らくは切実な問題となっているに違いないことに思い至った。それは「現代の高校生(=大学生も含めた若者)は,なぜ社会問題に興味を示さなくなったのか?」ということである。これは日常的に自分自身も逢着している問題でもあり,高校の現場にいる教員の方々であれば,共通の問題意識をもつテーマだろうと思った。言い換えれば,高校生が「社会」,「社会の動き」に興味をもつのが当たり前になれば,授業を行う「愉しみ」が俄然出てくる。話は「社会への問題関心の欠如と学力・知力の低下とが相互作用の関係にある」という仮説から出発して,現代社会の構造を読み解くところまで到った。問題関心を惹起するための現実的解決策と根源的解決策も織り込んだ。

ところが・・。研修セミナーに参加した教員の方々のアンケート結果がこのほど届いた。正直,いささか拍子抜けした。それによると,当方と問題意識を共有してくれたのは四分の一に過ぎないと出ていたからである。過半の方々のニーズは,「高校生の社会に対する無関心問題を俎上にのせる」ことよりも,高校生にいま注入すべき「新しい知識」をゲットすることにあると示されていたからである。根源的・構造的なものよりも,実用的でとりあえず何かがプラスされるものということなのである。

きょう, 2008年度第2次補正予算が成立した。例の「定額給付金」が盛り込まれている。まさにアドホックで,実用的(?)目眩ましの世界がここにも,というわけである・・。

一物一価という「神話」(?)2009年01月31日 13:07

いま目の前にある商品の値段が,他に比べて「安い」か「安くないか」が瞬時にわかるワザがうけているのだそうだ(昨日の日経「消費」面)。店頭にある商品のバーコードを自分のケイタイで読み取ると価格比較サイトのデータベースにある最安値が表示されるのだという。さっそく専用アプリをダウンロードして,試してみた。最安値とその価格で販売している店の情報があらわれた。最安値で販売している店がすべて対応しているとは限らないが,ケイタイから即発注することもできる。いわばケイタイ通販ということになる。店を営む者からすれば非常に脅威なワザであろう。店に陳列した商品が,価格情報(最安値情報)を取得するきっかけを与え,客はそこで購入することなく去っていくだけなのだから。いわゆる究極のウィンドー・ショッピングである。実に「実(身)も蓋もない話」なのである。合理性、しかも経済的と冠のつく合理性が瀰漫する状況にほかならないからである。人は、いまでは「人間」である前に貨幣所有者であり、消費者として存在するようになった。ホモサピエンスというよりもホモエコノミクスというわけである。

しかし、例えば、インターネットの普及は,商品価格について「一物一価」を実現すると見られてきたが、実際にはそうなっていないことに注目すべきであろう。つまり、Web情報によって,同じ商品に異なる価格がついているのが明らかになれば,ユーザーは最も低価格で販売しているところから購入するはずであり,結局のところその価格が商品の価格となる,という考えがそのまま現実となっているわけではないのである。人は、経済的合理性なる行動準拠を意識しつつも、それぞれの行動には異なる駆動力がはたらく。いいかえれば経済的には非合理というほかないファクターを駆使しながらモノを手にするのである。なじみの店というのがそうだし、雰囲気を感じて入る店というのもそうだし、冷やかしで覗いたものの店を出る時には包み紙を持っていたというのもそうだろう。

そうだとすれば、ケイタイ「価格.コム」の脅威というのも、想像するほどのものなのか・・。長らくさがしていたモノがふと入った店にあったとしたら。ケイタイで価格比較などという野暮は・・。