オープンキャンパスでの“発見”2008年08月02日 22:04

本日は朝からオープンキャンパスに駆り出された。大学がサービス産業以外の何ものでもないことを思い知る日である。年々,親同伴の高校生が増えている。それも両親と一緒がめだってきた。そして親同伴の高校生に限って,当方が何か質問してもまともな反応を示さない。おそらく,何の興味もなく,ただ親に促されたから来ただけのことだからであろう。なかに母親と姉に付き添われてきた男の子がいたが,これが哀しいほどに感度のない子だった。文字通り,取り付く島がないという典型。でも,結局は,このような高校生も4月には“大学生”となるのが現実である。だからサービス産業としては,無気力の学生であればあるほど,反応する成人へと変身させるミッションを自覚し,その具体化に向けたモチベーションを高めるということになる。

きょう,相手をした高校生は,3,4人一緒になってやってきたのもいたので,25人ほどだった。彼らほぼ全員に「最近,すごく印象に残った出来事は?」と訊ねた。その答えが“面白かった”。おおむね「1月ほど前にあった校内球技大会でクラスが優勝したこと!!」というような反応だったからである。 問題関心の射程はいわゆる世間や社会に延びることはなく,もっぱら自分の行動範囲,体験に限られている。でも,この普段は感じてこなかった“仲間意識”,“ファミリー感覚”を,球技大会などを通して身をもってつかんだことの意味を説明すると,多くの高校生の身体が“笑い始めたた”ように見えた。いまの高校生も実はすてたものではないのである。

札幌をたずねて2008年08月05日 22:01

道立近代美術館
久しぶりに札幌に来た。半日、完全にオフになったので、どこにいこうかと考えた。昨日乗ったタクシーでは、札幌の観るべきスポットは「さぁ、どこでしょうか?」。こうなれば、使える時間のことも考えれば、美術館しかない。中島公園内にある「道立文学館」には、すでに一昨日行った。90分足らずだったから物理的に「行った」だけというべきかもしれないが、企画展が「吉増剛造展」だったからめぐり合わせに感謝した。受け手が想像する表現域と表現形態をみごとにズラシテミセル、吉増の世界はより一層進化していた。常設展は「北海道の文学」。北海道ゆかりの文学者の紹介。その多彩な顔ぶれに驚いた。新聞記者としての仕事をまっとうしながら懸命に生きた啄木がいるかとおもえば、独立自由の地をもとめて北の大地にやってきた独歩は、後を追ってくるはずの人が来ず、わずか17日で本土に戻ったとあった。多喜二のコーナーは心なしかグィッと目だっていた。

ところで、きょうの、道立美術館。「特別展」は「レオナール・フジタ展」。ようするに藤田嗣治没後40年記念展ということであるが、パンフレットに躍るキャッチは「藤田嗣治 幻の群像大作 日本初公開。」60年以上所在が不明だった嗣治の「幻の作品」。2002年フランスの国家財産に認定されたが、保管状態が劣悪だったため、その修復に6年あまりかかってようやく公開にこぎつけた作品。藤田嗣治が晩年、カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなったことと深く結びついた大作であった。いわゆる「すばらしき乳白色」として知られる裸婦群や猫や子どもの画とつながる作品なのか、まったく異次元の作品というべきなのか。問題意識はあきらかに宗教画にあるのだが、藤田という異才、異邦人とはナニモノカについて再び考えさせられる“大作”ではあった。

道立美術館に隣接する「道立三岸好太郎美術館」にも立ち寄った。夭折の画家三岸好太郎とその配偶者節子。かつて芝木好子が『火の山にて飛ぶ鳥』でとりあげたことくらいしか知らなかったし、作品は見たことがなかったが、たしかにあふれるような才能をもつ画家だったと知った。デフォルメしてなお生々しいリアリティを伝える作品。しかしあっという間に画風を変えてしまう軽やかさも。小学6年の時に描いたという水墨画に見とれてしまった。水墨画の奥の深さをあっさりつかむセンスにまいった。

元祖フォークの心がわり2008年08月09日 11:14

元祖フォークが、メディア露出へのためらいを捨てた。岡林信康がテレビに出演し、初期アルバム復刻を受け入れたとある(8月8日朝日、朝刊)。岡林は、マスメディアに“乗る”ことを拒み「過去の作品を出すことは、かたくなに断り続けてきた。」

それが、なぜ、いま変わったのか?岡林は、従来、自分の「歌は、色々と政治的な意味をもたされ、利用された。でも今回話を持ちかけてきたレコード会社の若い人たちは純粋に音楽として楽しんでくれていた。だから任せた」という。36年ぶりに開いたコンサートで、客席は「みんな楽しそうな表情なんだ。昔は違った。客席は険しい顔ばかり。」だから、いまとなって“受け入れることにした”というのである。

いい話だ。が、落し穴はないだろうか?あの時、自由を歌う岡林の顔は険しくなかっただろうか?と一言発すれば容易にわかる。彼の顔は十分に険しかった。演者の顔も聴衆のそれも「険しかった」のがあの時代だったのである。それは“右手に(朝日)ジャーナル、左手に(少年)マガジン”がスタイルだったからである。自由を謳うことが、差別や周辺の存在を問うことなしには不可能なことを誰もが直観していた。しかし、いま岡林のコンサートを聴く多くの人にこうした屈託はない。「険しい」顔は見せない。

岡林について語る朝刊の別のページでは「今年は高校卒業生の60.1%が大学・短大への入学を志願」とある。岡林が「険しい顔」の聴衆に対面したという当時は、20%に足らず。いま大学・短大では、“学生”の圧倒的多数は「険しい」顔で授業を聴く。ライブのようなノリで話した時に初めて「険しい」顔がやわらぐ。確かに時代は変わった。・・・北京で五輪競技が開催されるほどに変わった。

五輪は「自立した個」の戦い?2008年08月13日 19:39

北京五輪は6日目。テレビは一日中五輪関連の映像を流し続ける。「オリンピック,これでもか攻勢」というわけである。もちろん,テレビだけでなく新聞も紙面の多くを五輪関連に割いている。目についた記事が「北島に見た『個の自立』」(村上龍・河北新報,08/12朝刊),「看看北京 ダルビッシュと日の丸」(西村欣也・朝日,08/12朝刊),「看看北京 なぜ巨像は後塵を拝するか」(加藤千洋・朝日,08/13朝刊)。

村上龍は,「日本選手たちの個としての自立が当然のことになった」として,その代表に100m平泳ぎ2連覇の北島を挙げる。「日の丸を背負って競技に挑む」ものの「同時に,最高レベルのライバルたちと個人として戦うことを楽しんでいるはず」,というのがその理由。ここには,“自由な個人=負荷なき自我”というのが近代が生み出したイデオロギーにほかならないことへの洞察はない。“自由な個人”,“自立した個”を絶対不可侵のものとする観念だけが立ち上がっているのである。北島は,インタヴュワーに「アテネ以上に気持ちいい。チョー気持ちいい」といわされた。しかし,これはホンネでもあったろう。しかも「私」だけの気持ちというより,むしろ例えば中学時代から〈二人三脚〉を続け,連覇を支えた平井コーチを念頭においたものであったはずだ。「個」だけでは競技に向かえないことを知っているというべきであろう。

西村欣也は,五輪大会の「国家主義的なにおい」に嫌気を起こしながら,「一人のアスリートの言葉に救われる思いがした」と書く。ダルビッシュの「日の丸は僕の中では絵でしかない。何も思わないです」「金メダルが欲しいという思いもない。自分のできることをするだけです。笑って終わりたいという気持ちが強い・・」というのが“救われた”言葉にほかならないと。そこで西村は「自戒もこめて,メダルの数だけを数える五輪にはしたくない。選手とチームは国家など背負ってはいない」と強調する。しかし,現実は,スポーツ面にはきわめて詳細な「国別メダル獲得表」が躍っているのである。西村は,紙面づくりについてはたして何かを主張しているのだろうか?

そうであればこそ,加藤千洋が紹介する在中国インド大使館幹部の言葉が印象的にひびく。インドには「選手を商品に,スポーツをビジネスとする米国式資本主義もないし,他方で中国のように優秀選手を武器とし,国威発揚を目指す社会主義的発想もない」。メダルにほとんど縁のないインドの底力が奈辺にあるのかを教えてくれる実に含蓄に富む言葉なのである。